ミッドナイト・アンド・ハーフ

1999/10/30 ル・シネマ2
(第12回東京国際映画祭)
津波の接近で無人になった町で繰り広げられる無言のゲーム。
すごくイライラする映画。早送りしたくなった。by K. Hattori


 東京国際映画祭コンペ部門のプレス試写で、最初に観た映画がこんなものでした……。監督はヴェネズエラ出身のマリアナ・ロンドンと、ペルー出身のマリア・テレサ・ウガス。キューバの映画学校で同級生だったという、若い女性監督二人組の作品です。物語の舞台は、南米の小さな港町。間もなく町を津波が襲うという警告が出され、住人たちが次々に町から避難している。ところが町から脱出するための海沿いの道は、人々の車で大渋滞。主人公の青年セバスティアンも、おんぼろの車を買って町を出ようとするが、渋滞にはばまれて身動きがとれなくなってしまう。彼は避難した両親に置き去りにされたという少女を車に乗せて、町にUターン。ゴーストタウンのようになった町で、セバスティアンと少女、それにセバスティアンの恋人だったアナを交えた無言のゲームが始まる。はたして津波は来るのか。少女の待ち望む世界の終わりはやって来るのだろうか?

 ひどく観念的な映画で、僕にはこの監督たちが何を言わんとしているのか、さっぱり理解できなかった。この映画を一言で言い表わすとすれば、「もどかしい」「じれったい」「イライラする」といった表現が最適かもしれない。とにかく、結論が出ないのです。徹底的に歯切れが悪い。主人公の青年は何が目的なのか、少女は何を望んでいるのか、町の中で写真を撮っている女は何を期待しているのか。何も見えない。何もわからない。すべてはゲームと名付けられた行為のなかに埋没し、輪郭が曖昧になってしまう。こんな映画、ビデオで観ていたらすぐに早送りです。早送りしたまま、気が付いたらエンドクレジットになってしまうような映画ですけどね。

 無人になった町の中で、3人の人間が幾度もすれ違って、最後の最後まで3人が揃うことがない。このすれ違いが「運命のいたずら」ならメロドラマですが、ここではそうした方向に話が展開しない。すれ違いは主人公たちが意図したもの。彼らは接近と回避を何度も繰り返し、出会うことによって生じる「決断」を先送りにする。少女はそれを傍観し、自分で立てた予想が当たるか外れるかで「勝った」「負けた」とひとりで大騒ぎ。

 そもそも、沖合30キロ地点にある津波が、何時間も何十時間も町に到達しないことからして意味不明。(これは字幕翻訳の問題かもしれない。)作り手側はこうした人間関係や舞台装置の中に、何らかの寓意性を盛り込みたかったのかもしれないが、それが何を意味しているのか観客には伝わってこない。これは現実なのか? それとも夢なのか? ひょっとして、映画に登場する町は既に津波に飲まれていて、登場人物たちは全員が幽霊なのかもしれない。そんな解釈さえ許してしまうような雰囲気が、この映画には漂っている。

 午前中の上映で、映画の後半には多少腹がへってきたこともあるが、観ていて非常にイライラして、腹立たしくなってきた映画です。とっとと結論を出せ。いい加減にしろ。大声で怒鳴りたくなってしまいました。

(原題:A la Media Noche y Media)


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