ベオウルフ

1999/08/26 SPE試写室
英国の叙事詩「ベオウルフ」の舞台を未来に移した活劇映画。
クリストファー・ランバートに元気がない。by K. Hattori


 中世イギリスで書かれた英雄叙事詩「ベオウルフ」を、舞台を未来に移して自由にアレンジしたファンタジー映画。モンスターに取りつかれた砦に乗り込む勇者ベオウルフを演じているのは、『ハイランダー』シリーズのクリストファー・ランバート。監督は『オーメン/最後の闘争」『エイリアン・ネイション』のグラハム・ベイカー。原作は北欧ゲルマン民族の伝説をキリスト教的にアレンジしたものだが、この映画ではキリスト教的要素をスッポリと抜き去り、英雄と怪物退治の物語に絞り込んでいる。舞台を未来に設定したことで時代考証から自由になり、登場人物たちのコスチュームや武器類も自由にデザインしているし、描かれているテクノロジーも中世風のものからガス灯や蒸気機関まで混ざっている。

 主人公ベオウルフは、人間の女と怪物との混血という設定。彼は自分の中の怪物の血を否定するために、怪物と戦い続けなければならない宿命を持っている。これはウェズリー・スナイプス主演のバンパイア映画『ブレイド』と同じ設定だ。魔物に取りつかれた砦を周囲から隔離するため、砦をびっしりと包囲している兵士たち。その囲みを破って砦に入ったベオウルフは、怪物と戦って重傷を負うが、翌日にはすっかり回復してしまう。彼が否定しようとしている魔性の血が、彼の命を守っている皮肉。魔物と英雄を分けるのは、悪と戦い抜こうとする意志だけなのだ。本来はゲルマン民族の理想的君主像を描いたベオウルフの物語は、この映画の中で『バットマン』『クロウ/飛翔伝説』『スポーン』などに連なる典型的なダーク・ヒーローものに変わっている。

 ダーク・ヒーローものと言えば「アメコミ」である。この映画『ベオウルフ』も、血生臭い物語、活劇中心の展開、薄汚れたパンク風ファッション、凝ったディテール、半裸の美女など、アメコミ風ダーク・ヒーロー路線を狙ったことが一目瞭然。しかし演出の歯切れが悪く、どの場面にもスピード感や爽快感がないのは残念だ。砦の兵士とベオウルフが、謎の怪物グレンデルと戦う場面は、もっとケレン味たっぷりに派手な演出をしてほしかった。ひょっとしたら監督にはそうした活劇指向がなく、古風な中世騎士伝説を描きたかったのかもしれないが、それはこの薄っぺらな脚本では無理。この物語には、黙って立っていても様になる精神性など皆無なのだから。

 最初からクリストファー・ランバートを想定して書かれた脚本だと言うが、彼もさすがに年を取ってきていて、若武者という感じはしない。低く押さえた声もかつては冷静沈着で落ち着いたものに聞こえたが、今は覇気のない弱々しい声に聞こえてしまう。映画の中では、ベオウルフがもっと感情をあらわにする場面があった方がよかったと思う。感情の爆発こそ、生命力のほとばしりだ。

 古典が古典として残ってきたのは、そこにどの時代にも通じる普遍的な面白さがあるからでしょう。この映画はベオウルフ伝説という好材料を得ながら、そこから大事なものを拾い損ねているように感じられます。

(原題:BEOWULF)


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