金融腐蝕列島
呪縛

1999/08/18 東映第1試写室
高杉良の経済小説を『バウンス ko GALS』の原田眞人監督が映画化。
サラリーマンをしばる「呪縛」に切り込み不足では? by K. Hattori


 原田眞人監督の『KAMIKAZE TAXI』と『バウンス ko GALS』は、主人公の個人的視点に観客を同化させながら、現代社会の暗部や矛盾に鋭く切り込んで行く傑作だ。その原田監督が、高杉良の経済小説をメジャーの東映で映画化した。総会屋と癒着する銀行から、裏社会に流れた巨額の不正融資。バブルが崩壊したことで、巧妙に隠されていたはずの黒いパイプが、不良債権として表面に浮き上がってくる。これをバブル精算の好機として動き出す検察。危機意識のなかった銀行上層部は一夜にしてパニックに陥り、銀行内部はガタガタ。そんな中で、危機感を持ったミドル世代が再建のために走り出す。日本経済の動脈とも言える銀行をしばる、裏社会の「呪縛」とは何なのか。わずか数人の力で、銀行という巨大組織を再建することができるのだろうか?

 1時間55分のどこをとっても「原田眞人タッチ」の映画で、なかなかに迫力はあります。しかし期待していたほどには面白くなかったというのが、正直な気持ち。物語のスケールの割には、ドラマに広がりがなくて全体に寸詰まり気味。シークエンスとシークエンスをつなぐ部分を詰めてしまったため、映画全体を支配する時間の流れがわかりにくくなっている。本来は3時間かけて描くべき話を、無理矢理2時間以内に収めた感じです。同じ内容でも2時間10分ぐらいあれば、今よりずっとスケールの大きな映画になったような気がします。

 タイトルの『呪縛』というのは、日本を代表する大銀行ACB(朝日中央銀行)が、総会屋という裏社会と手を切れないでいる様々な事情を指しています。この映画では、裏社会にベッタリ依存していた銀行が、検察の捜査というショック療法で健全化する様子を描いている。裏社会と手を切って、銀行は新しい再生の道に一歩足を踏み入れる。だが僕はこの映画を観て、ずいぶんと物足りないのです。この映画で描かれるべき「呪縛」は、もっと別の部分ではないだろうか。

 主人公たちミドル4人組は、「俺たち4人は銀行再生のための捨て石だ。辞めるのは簡単だが、まずはやることやってから辞めようぜ」と誓い合う。まるで三国志の世界だ。だが、彼らはなぜ「会社のため」の捨て石になろうとしたのだろう。なぜ自分たちが犠牲になってまで、会社を守ろうとするのだろう。こうした滅私奉公こそ、現代サラリーマンに刷り込まれた会社人間としての「呪縛」ではないのか。映画にゲスト出演している佐高信が言うところの「社畜」とどこが違うのだろうか。会社と自分を過度に一体視し、他の役員をクビにしても自分だけは居座ろうとする銀行トップは、大きな「呪縛」で身動きがとれなくなっている。だがそうした「呪縛」は、多かれ少なかれ他の登場人物たちをも支配しているのではないのか。「俺がいなければこの銀行はダメだ」と言う銀行トップと、「俺たちが捨て石になって銀行を救おう」という主人公たちは、やっていることは違っても精神構造は同じなんじゃないだろうか……。


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