この子を残して

1999/02/06 松竹セントラル3
長崎で被爆した医師・永井隆の手記を木下惠介が映画化。
人間の掘り下げが浅すぎて物語も薄い。by K. Hattori


 長崎で被爆した医学博士・永井隆の手記をもとに、原爆投下前後の長崎の様子と復興への道を描き、反原子力と反戦のメッセージを高らかに歌い上げた大作。主演の加藤剛が永井博士を熱演しているが、映画自体は特別優れているとも思えなかった。庶民の視点から見た原爆の被害と平和への願いというのはわかるのですが、最終的にはメッセージばかりが先に立って、焼け跡生活者の息づかいが希薄になってしまう。「戦争はいかん」「原爆はいかん」という誰にでもわかりやすく、反対しにくいテーマを語らせるばかりで、人間の営みの汚さや罪深さ、ある種のいかがわしさなどが、一切消えてなくなるのだ。

 僕は日本の戦争被害をモチーフにした映画で、「日本の戦争責任」に触れる必要などさらさらないと考えています。しかしこの映画の永井博士のように、日本が中国でやっていたことを一切無視して、「長崎の被害者は、平和のための尊い犠牲です」などと語られると、「おいおい、そりゃないだろ」と思ってしまう。戦争は人間が起こしているのです。戦争の中には、人間の持つあらゆる美と醜が、極端な形で現れてくる。自身も被害を受けながら、献身的に医療活動を続けた永井博士は、戦争が生み出した「美」の一面でしょう。しかし長崎に落とされた原爆やその被害は、「醜」の最たるものではないのか。僕はそれを「尊い犠牲」と言い繕う姿勢が、どうしても腑に落ちない。また、仮に長崎の犠牲者たちが「尊い犠牲」だったとしたら、日本がアジア諸国で殺した罪なき人々は、すべて「尊い犠牲」なんだろうか。

 この映画は、被爆者たちを「尊い犠牲者」として描くあまり、その中にある人間らしい「弱さ」「ずるさ」がスポイルされている。例えば、仕事に没頭して家族を置き去りにしてしまった父親の心情、教え子を見殺しにした小学校教師の苦しみ、家族を失い自暴自棄になった老人が陥ったニヒリズムなど、あまりにも表面的すぎる。ここをもっと掘り下げて行けば、この映画はずっと見応えのあるものになっただろうに……。

 だが木下惠介は、被害者たちのそうした心の弱さやずるさを、すべて「しょうがないよ」と許してしまう。徹底的に追いつめた上で許すならまだしも、相手が弱さを見せた途端、それを深く検証する間もなくすぐに許してしまう。これによって、いくつかのエピソードは映画の中で立場を失っている。本来果たすべき役目を果たすことなく、宙ぶらりんに取り残されている。

 この映画のクライマックスは、映画の最後にある原爆投下直後の地獄絵図。映画の序盤では疎開先から見たきのこ雲だけを見せ、直接は爆心地付近の様子を見せなかったのだが、最後に「にんげんをかえせ」の歌にあわせて、死屍累々たる残酷描写が続く。なるほど、序盤で被爆者を描かなかったのはこのせいかと感心したが、これももう少し見せ方に工夫があれば面白かったのにね。過去の場面でもっと色を整理しておくと、原爆投下直後の火と血の「赤」が一層引き立っただろう。


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