愛する者よ、列車に乗れ

1998/11/17 徳間ホール
ひとりの画家が死んだとき、残された周囲の人々が考えたことは?
葬式前後の2日間を描いた集団人間ドラマ。by K. Hattori


 画家兼美術教師として名を知られていたジャン=バチストが、長年暮らしていたパリで死んだ。遺体は故郷のリモージュに葬られることになる。葬儀に参列するため、死んだ画家とゆかりの人々が列車に乗り込む。画家の教え子、親戚、かつての恋人たちが乗り合わせた列車は、主人公不在のまま墓地のある町に向かって走り続ける。列車の中で生まれる、新たな出会いと別れ。葬儀を終えた人々は、翌日には再びそれぞれの日常へと帰って行くのだ。この映画は、その2日間を描いている。

 葬式というのは変なもので、それまで面識のなかった人が一堂に集まり、疎遠だった親戚や、古い友人たちも、この世から旅立った人を慕って集まってくる。最初に始まるのは近況報告。長らく顔を合わせないうちに、子供は大きく成長し、青年は中年に変わり果て、恋人たちは結婚して夫婦になり、仲のよかった夫婦は別れる寸前になっている。普段は仲のよくない人たちも、故人のために同じ場に集まり、滅多に会うことのない遠い親戚が顔を合わせることもある。奇妙なのは、そうした人々を結びつける張本人が、既にこの世にはいないということ。葬式に向かう集団は、ポッカリと中心が抜けている。棺や遺影や祭壇でもあれば、それが名目上の中心になるのだろうが、この映画では遺体を納めた棺は列車に乗らずに車で移動しているため、列車の中は見事に中心を欠いたままで会話が進行して行くことになる。

 ジャン=バチストとはいったい何者だったのか。それはこの映画を最後まで観ても、一向に見当がつかない。葬式をテーマにした映画では、黒澤明の『生きる』のように、参列者たちが故人について語り合うのがひとつのパターンになっているのだが、この映画では画家のキャラクターはそれぞれにとって自明のこととされており、相互に語り合うということがほとんどない。逆に言えば、それだけ画家の個性が強烈だったということだろう。だがそれは、観客にはまったく明かされない。

 この映画が描いているのは、ジャン=バチストという強烈な個性の周辺に群がった人たちの姿だ。彼らは画家が死んでいるにもかかわらず、自分がいかに画家の寵愛を受けていたかを自慢しあい、画家の威光を借りて他人を罵倒する。画家の肉体と魂は死んでも、その個性的なキャラクターは残された人たちの心に生き続けているのだ。映画の中に登場するジャン=バチストは、テープレコーダーに録音された声であり、わずかにインサートされるアトリエの中での姿に過ぎない。しかし彼は死んでなお、幽霊のように人々を支配し続ける。

 この映画は、残された人たちがいかにして死者の影響力から抜け出すかを描いている。強烈な個性が生み出した巨大な重圧から、人はどうすれば自由になれるのか。それがこの映画の本当のテーマに思える。映画のラストシーンで、カメラは空に向かってぐんぐん上昇して行く。これはジャン=バチストの魂が、人々から離れて行くことを象徴的に描いているのだろう。

(原題:CEUX QUI M'AIMENT PRENDRONT Le TRAIN)


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