静けさの消えた日

1998/10/31 渋谷ジョイシネマ
東京国際映画祭/コンペティション
田舎の村にラジオ局ができた日、村からは静けさが消えた。
ボリビア版の『パブリック・アクセス』。by K. Hattori


 東京国際映画祭のコンペ部門に出品されているボリビア映画。監督はイタリア出身のパオロ・アガッツィ。時代は今から数十年前。電気も通じていないボリビア山中の小さな村に、ある日、旅芝居の一座がやってくる。村の有力者の美人妻は、一座の花形役者と浮気したのがばれて出奔。残された夫は、妻に似た娘を鎖でつないで家に閉じこめ、自分も家から一歩も出なくなってしまう。それから数年後、今度村にやってきたのは、私設ラジオ局の経営者兼DJ。教会の尖塔に大きなスピーカーを取付け、村はずれまで響き渡る大音響で音楽やおしゃべりを流す放送の出現。一部の人たちはこれに眉をひそめるが、目新しさと便利さに多くの人たちが放送を利用しはじめる。だがこの放送が、やがて村の人たちからプライバシーを奪い、憎しみ合いを増幅するようになる……。

 流れ者の男が地域の人々を主役の放送を作ったことで、地域の人々の隠された生活があぶり出されて行くという話は、ブライアン・シンガーの『パブリック・アクセス』と同じアイデア。時代背景や登場人物のラテン気質、流れ者の男の好色さやインチキくさい商売ぶりなどは、ジョゼッペ・トルナトーレの『明日を夢見て』も思い出させる。加えてラテン・アメリカ的な、幻想的とも言える家族の物語は、アルフォンソ・アラウの『雲の中で散歩』などに通じるものだ。この映画は人間の心の暗部をグロテスクに描くのではなく、グロテスクな状況の中で素朴さを失わない人々を描いた点が面白い。文明の機器導入で村に伝わる素朴な人情が失われることを惜しみつつ、こうした文明の発展を嫌っているわけでもない。時代が変化すれば人情も変わる。それを否定していては、人間は生きて行けない。来るべき変化は受け入れなければならぬ、というのが基本スタンスのようです。

 登場人物たちの中では、村はずれの高台に住む老人と、父親に鎖で縛られている少女が印象に残った。前者は物語の進行役であり、すべての事件の調停者。どうやら彼は、普通の人間ではないらしい。『パブリック・アクセス』に登場した男が悪魔だとすれば、この老人は天使でしょう。一方、閉じこめられていた美少女は、この映画最大の拾いもの。成熟した体を持て余しながら、誰かが救い出してくれるのを待っている深窓の令嬢だ。その魅力は、まさに大輪の花を開かせる直前のつぼみ。ほんの一瞬で大人の女になってしまうような完璧に成熟した肉体と、無垢な魂とのアンバランスがじつに危うい魅力を感じさせる。その危うさが、彼女の魅力なのです。

 パンフには日本配給の予定が書いていなかったものの、これは日本で公開してもいい映画だと思う。面白さの平均点をかなり超えているので、映画ファンなら観る映画だと思う。難点は映画の序盤で、台詞の音声レベルが低くなっているという点ぐらいだろうか。SEやBGMは通常音量なので、たぶんダビング時点での問題だと思う。劇場側の問題ではなく、フィルムそのものの問題です。もっとも、これは途中で気にならなくななりました。

(原題:El Dia que Murio el Silencio)


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