生きたい

1998/10/30 日本ヘラルド映画試写室
ボケはじめた父親と躁鬱病の娘の確執をユーモアを込めて描く。
ファンタジックでユーモラスな社会派映画。by K. Hattori


 『午後の遺言状』に続き、新藤兼人監督が「老い」を描いた最新作。しかしこのタイトル、黒澤の『生きる』、ダンカンの『生きない』と並ぶと、なんだか品詞の五段活用みたいですね。『生きてこそ』という洋画もあったな……。今後は『生きるとき』『生きれば』『生きろ』などのタイトルが出てくるかもしれない。

 映画の内容は、古くから伝わる姨捨山の伝説と、現代の老人介護問題をからめた、社会派のファンタジーとも言うべきもの。頭はもうろくしていないのに、下半身の始末が自分でつけられずに糞尿を垂れ流す主人公・安吉は、嫁かず後家となった躁鬱病の娘とふたり暮らし。娘は自分が婚期を逃したのも、病気になったのも父のせいだと言って父親をなじる。映画は安吉と娘・徳子の関係を描いたドラマに、安吉が読む姨捨伝説の本の内容をからめながら進行して行く。面白いのは、この映画では「安吉と徳子の物語」こそがファンタジーであり、本来はフィクションである「姨捨伝説」こそが、リアルな現実の話として描かれていることだろう。

 そもそも最初から、この映画の台詞回しや画面処理には異様な雰囲気がある。台詞回しは時代劇のように大げさで、台詞の抑揚や間の取り方も、わざと人工的に見えるような演出がされている。また画面も照明を平面的に当てて、人物と背景がフラットに見えるようになっているし、安定した平面的構図が多用されている。全体にパンフォーカス気味なことも、画面の絵画的印象を高めている。こうした効果は、例えば安吉が通い詰めるバーのカウンターで交わされる客同士の会話や、安吉が運び込まれた病院で、医者と安吉と徳子が並んで会話する場面などで、奇妙によそよそしい雰囲気を生みだしている。

 逆に劇中で民話が語られる場面は、画面をモノクロにしてもタッチが妙に生々しいのだ。吉田日出子が老けメイクで老婆を演じていることも、この場面に隠しようのない生命観を与えているし、くじ引きで嫁に来たオキチ役の中里博美があらわなヌードを披露するのも、素朴な民話の世界にはおおよそ似つかわしくない。こうして、現実の世界はファンタジックな色彩を強め、民話の世界は生々しい現実の世界を映し出すようになる。民話の世界では老母が捨てられて死ぬというリアリズムを見せ、現実の世界では娘が父親を老人ホームから引き取るのだ。こうして逆転した民話の世界と現実世界は、最後に混ざり合ってひとつの映画を形作る……。構成としては面白い。ただし、僕はまだこの映画の内容を我が事のようには考えられないので、感心はしても感動はしなかった。同じ新藤脚本だったら、『おもちゃ』の方が面白い。

 主演は三國連太郎と大竹しのぶ。童女がそのまま老けてしまったような大竹しのぶの個性が、この映画ではうまくハマっていたと思う。映画に描かれている内容は、どれも今の日本にあるリアルな現実ばかり。それを正面から大まじめに描かず、少し笑いとファンタジーを交えて描いているところが、この映画の面白さだろう。


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