猫耳

1998/09/22 東宝東和一番町試写室
海外でも評価の高い黒澤潤の実験的な長編映画。
幻想的でグロテスクな映像の渦。by K. Hattori


 「Neo-Avantgarde」と題されたBOX東中野の特集上映で、目玉作品として上映される黒澤潤監督の長編作品。この映画には、物語がない。少なくとも観客は、ここから一般の映画が持っているような物語性を読み取ることはできない。この映画は映像による前衛詩、あるいは映像によるフリージャズとでも表現したい作品だ。資料にはストーリーらしきものが書かれているが、これはクラシックの交響詩に表題が付けられているようなものなのではないだろうか。どんな表題が付いていたとしても、音楽からストーリーを明確に想像するのは難しい。この映画からストーリーを読み取るのは、同じぐらい難しいと思う。無理に考え込まず、単純に「映像のための映像」と割り切ったほうがいいかもしれない。

 この映画に登場するような実験的・前衛的な映像表現は、例えばサスペンス映画のタイトルバックや、劇中の幻想シーン、CMや深夜のミニドラマの一部などにしばしば見られるものだ。カイル・クーパーによる『セブン』や『ミミック』のタイトルバックや、『リング』に登場する謎のビデオ映像などでは、通常のドラマとは異質な映像表現が生み出す効果を計算して、目まぐるしく変化する短いコマの乱舞やノイジーな音響を使っている。つまり一見難解に思える『猫耳』も、いまや映画ファンにとっても馴染み深い映像といえるのだ。だが、映画のタイトルバックなど、たかだか数分にすぎない。同じような映像で80分間も観客を引きつけようとすれば、かなりのエネルギーと労力、そして才能が必要だ。

 この映画は、廃墟に遊ぶ数人の男女と、草原や森や湖の風景を描いている。僕はこの映画を観て、金子修介の『1999年の夏休み』を思い出した。冷たく、シャープな映像感覚と、全体にうっすらと漂う死の匂いも、了作品には共通している。もちろん、一方は劇映画、一方は前衛的な実験映画という違いはあるが……。あるいはこの映画を、『新世紀エヴァンゲリオン』に描かれた終末の風景と重ねることも可能だろう。関係性を断たれた密室の中で、手を取って遊ぶ子供たち。最後は画面に満たされた、豊満な水のイメージで終るのも共通だ。

 僕は途中で30分ほど寝てしまったのだが、物語らしい物語はないので、特に大きな問題はないかも。寝てしまったことより問題なのは、僕自身、この手の映画を観るのは初めての体験だということ。比較の対象がないので、僕はこの映画について、きちんとした論評ができない。BOX東中野での上映では、黒澤潤監督の他の作品も上映されるようなので、それらを観れば、また違った感想が持てるのかもしれない。面白そうだけど、レイトショーだし、たぶん僕は行かないんだろうなぁ……。

 試写の最中に寝た映画は、もう一度観てからきちんとした批評をする、というのが僕の基本的なスタンスなんですが、この映画については一度で十分という気がする。むしろ、同じ系統の別の作品を観てみたい。これはこれで、楽しそうな世界が開けそうな気がします。


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