ドクター・ドリトル

1998/09/08 よみうりホール
動物と話が出来るお医者さんドクター・ドリトルの物語。
設定のわりには話が小さくてつまらない。by K. Hattori


 1967年にレックス・ハリスン主演で『ドリトル先生不思議な旅』としてミュージカル映画化されたこともあるヒュー・ロフティングの原作を、エディ・マーフィー主演で再映画化。監督は『プライベート・パーツ』のベティ・トーマス。『マスク』や『ナッティ・プロフェッサー』のジョン・ファーハットが特殊効果を担当し、『ベイブ』で動物を喋らせたジム・ヘンソンの工房がクリーチャー製作を担当している。最新のアニマトロニクス技術やCGを使えば、動物と話せるドリトル先生の物語がリアルに作れるだろうことは理解できるのですが、映画の面白さは、それだけじゃないんだよね。この映画は、確かに技術的には優れているのでしょう。でも同じ技術は『ベイブ』で既に観ているから今更驚かない。僕はもっと違う何かを、この映画に期待していたんだけど。

 少年時代から動物と話す特殊な力を持っていたドリトル少年は、その能力が周囲から理解されず、息子を心配した父親から仲良しの犬を取り上げられてしまった。この心の傷が、彼のせっかくの能力を奪ってしまう。やがて成長して大病院の医師になったドリトルは、動物嫌いの退屈な大人になっている。ところが道で野良犬をひき殺そうになったとき、犬が「気をつけろ!間抜け!」と捨て台詞を残して去るのを聞いた。この瞬間から、ドリトル先生の能力は復活するのだが、彼は動物嫌いだから、動物たちの声がうるさくて仕方がない。そもそも、彼が動物と話せるなんてことが周囲にばれれば、また頭がおかしくなったと思われるに決まっている。動物たちは彼を慕って寄ってくるものの、彼は何とか自分の能力が周囲にばれないようにと願うのだった……。

 「動物と話す」という能力は世の中の一般的な尺度から見れば異様だし、「私は動物と話が出来ます」という人は医者の精密検査を受けたほうがいい。それが世間の常識というもの。そんな常識を百も承知の人物に、幸か不幸かその異様な能力が身についてしまうという状況こそが、この映画の着眼点なのでしょう。でもこの着眼点は、そもそも間違っていないだろうか? ドリトル先生本人にとってこの能力は邪魔物だし、かえって迷惑でしかないという前提が、僕にはそもそも納得できないし、映画の中の物語として納得したくない。

 動物と話せるなんて、結構なことじゃないか。物語はむしろ、その能力を肯定することからスタートすべきです。ドリトル先生を異常者として隔離する発想より、ドリトル先生の能力を世の中が最初から全面的に受け入れたほうが、映画はもっとずっと面白くなったでしょう。この特殊な能力があれば、例えば彼は最高の獣医になれる、動物トレーナーになれる、国家機密だって簡単に盗み出せる。彼の周囲には、彼の能力で一儲けをたくらむ人たちがひしめき合います。その時、彼や家族は何を考えるのだろうか……。そんな発想が、この映画の製作者たちにはなかったんだろうか? せっかくのファンタジックな設定も、これでは台無しです。

(原題:DR. DOLITTLE)


ホームページ
ホームページへ