黄落

1998/05/27 中央会館
西村晃最後の出演作だけど、これはテレビドラマじゃん!
NHK出身者にフィルム演出は無理か。by K. Hattori


 俳優・西村晃の遺作となった映画という触れ込みだが、その実体は、以前にテレビ東京で放送されたスペシャル・ドラマ。テレフィーチュアを差別するつもりはないが、ビデオ撮りのドラマをそのままスクリーンで2時間観るのは、ちょっと空しい気持ちになる。せめて16ミリで撮影して、テレビではビデオに落として放送し、スクリーンでは35ミリにブローアップする程度の意気込みを見せてほしい。中身は上等のドラマかもしれないが、テレビ作品を単にキネコ落としでスクリーンにかけるなんて、出がらしの番茶を飲まされたような気分です。低予算のインディーズ映画なら、それも「家庭的な味」ということで許せるけれど、この映画ぐらいの規模になると、許してしまうことに抵抗を感じる。

 演出は元NHKの深町幸男。芝居の組み立てなどには別段クレームを付けたくなる部分はないのだが、演出や編集はもろに「テレビドラマ」のスタイル。登場人物の台詞を字幕で説明したり、テロップを出したりする部分には、非常に抵抗を感じる。テレビドラマなら、これでもいいでしょう。でも、今回上映されたものを「映画」と言うのであれば、編集前のマスターテープを使って、テロップのないフィルムを作るべきだったと思う。オープニングのタイトルも、人名の文字が大きすぎるし、エンディングのタイトルロールも、スクロールするスピードが速すぎます。テレビドラマは1度か2度放送したらそれでソフトとしての命を失ってしまうので、それを「映画」として再度人の目に触れるような形にしたいという意図はわかりますが、この仕上がりは「放送フィルムの再利用」ではなく、「廃物のリサイクル」です。

 オーバーラップを多用したショットの切り替えや、時間経過を表すテロップ、終盤近くなると頻発する登場人物のナレーションなども、ひどく気に障ります。オーバーラップ処理はテレビで見ると気になりませんが、映画であまり多用されると、なんだか下品に感じられるのです。映画の場合、ショットの切り替えをカットにするか、オーバーラップにするか、ワイプにするかで、場面転換の「意味」が変わってきます。この映画では、そうした点に関して、ひどく無頓着なのです。

 主人公は市原悦子扮する59歳の主婦ですが、物語の中心になるのは愛川欽也扮する彼女の夫。この映画の中心点は夫と妻の間でふらつき、最後まで定まりきれていないような印象を持ちます。これは市原悦子の側にがっちりと腰を据えて、愛川欽也を徹底的に脇役に回した方がスッキリしたと思う。回転軸がふたつあるコマはうまく回りません。この映画に登場する夫婦は、ふたりでひとつの回転軸になれるほどには、脚本上で密接につながっていないんです。それぞれが別々に行動し、主役の座を巡って最後まで綱引きをしているように見えました。

 原作は佐江衆一の同名小説。脚色は寺内小春。老人介護という現代的なテーマを持つ意欲作だけに、この「映画」には失望させられました。


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