狐の呉れた赤ん坊

1998/05/21 近代美術館フィルムセンター
昭和20年に製作された、阪妻主演のチャンバラなき時代劇。
脚本も役者もよい。最後は泣けるぜ。by K. Hattori


 終戦の年、昭和20年に製作された、阪妻主演の人情時代劇。占領軍の通達により、占領中の日本では「封建的」で「残酷」で「非科学的」な時代劇が作れなくなってしまった。つまり忠君『忠臣蔵』は駄目、チャンバラはもってのほか、幽霊や怪談も好ましくないというわけです。そこで戦前のチャンバラスターたちは、慣れない現代劇に出演したり、剣豪から岡っ引に役を替えたりして何とか映画に出演していた。こうした時代劇受難時代の映画界から距離を置き、実演で糊口をしのいでいた人たちも多い。そんな中、阪東妻三郎はチャンバラのない『狐の呉れた赤ん坊』で時代劇映画に復帰している。そういう意味で、この映画は戦後映画史に残る作品です。得てして「映画史に残る作品」は時代の匂いが染み付き過ぎて、後から観ると古びてしまうことが多い。でもこの映画は、今観ても決して古びていない。僕は映画を観ながら、何度か涙が出る場面がありました。

 人一倍気が荒く、酒が入ると喧嘩ばかりしている主人公、張り子の寅は、大井川の川越え人足。彼はある晩、狐が出て人を化かすという森の中で、泣いている赤ん坊を拾ってくる。最初は狐の化けた姿だと思っていた寅も、どうやら本物の人間の赤ん坊らしいということになるると困り果て、もう一度森に捨ててこようとするのだが、今度は情が移って捨てられない。やがて寅は酒と博奕と喧嘩から足を洗い、善太と名付けた子供の良き父親になるのだった。そして6年後、大きく成長した善太のもとへ、西国の大名の家臣たちが訪ねてくる。善太は殿様のご落胤で、病で死んだ嫡子のかわりに、世継ぎとして引き取りたいというのだ……。

 拾った子供を捨てるに捨てられず、育てているうちに情が移り、じつの親が現れても別れるに忍びないという物語は、明らかにチャップリンの『キッド』から影響を受けている。脚本の構成なども、現在のハリウッド映画に負けないぐらいまとまっていて、特に中盤以降、寅と居酒屋の娘のロマンスを物語に沿わせて行くあたりは上手いものです。時代の経過を表すために、脇役の相撲取りがだんだん出世していく様子を見せたり、手土産の相撲人形の数が増えてくるという演出も手堅い。難を言えば、善太がご落胤だという説明が理に勝ちすぎて、かえって腑に落ちない点ぐらいだろう。理屈としては筋が通っているが、これは人情の点で筋が通らない。相撲取りの善太への愛情も一応は描かれているが、阪妻の濃厚な芝居に比べると薄味で、印象が淡くなってしまった。

 寅の仲間の人足たちや、寅を何とか馬方に引っ張り込もうとして喧嘩をする男、質屋の因業おやじなど、脇役たちも魅力たっぷり。これが物語にゆったりとしたうねりを生み出し、その上で演じられる寅と善太の物語が立体的に見えてくる。ちゃんばらはないが、主人公の心理的葛藤を十分に描ききっているので、クライマックスの緊張感はアクション映画同様に手に汗握る仕上がりだ。「もう一度死ね!」という質屋の台詞が泣かせる……。


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