ピースメーカー

1998/02/24 日劇プラザ
クライマックスの盛り上げに少し失敗していると思うけど、
全体的にはやはり上手い映画だと思う。by K. Hattori



 あまり大きな声では言えないことですが、僕はこの映画を試写で観たとき途中で何度かウトウトしてしまい、話のつながりがよく飲み込めない部分がありました。それでも大まかな印象で「映画紹介」の記事を書いたりしているんだからひどいものです。こうした一種の不義理をしているので、今回は一般観客として改めて劇場に足を運んだのですが、改めて観ると、じつは「観逃している場面」がほとんどないことに気が付きました。目を皿のようにして画面を観ていても、「ここは初めて観るぞ」という場面が皆無なのです。

 結局、試写室ではウトウトして寝込んでしまったというより、頭がぼんやりして意識があらぬ方向に脱線していることが多いようです。ボンヤリと画面だけは眺めているんでしょう。完全に意識不明になっているのは、2時間の映画の中の数分間ではないでしょうか。ただしその数分間が、数十秒ずつ断続的に訪れるから、記憶の中で話がブツブツ途切れてしまう。今回改めて全編通しで観て、前回寝ながら観た印象とあまり変わらないことに驚いています。(だから寝てしまった映画について論じてもいい、ということにはなりませんが……。)

 アクション映画としては全編見応えのある場面の連続で、ミミ・レダー監督の力量をうかがわせます。冒頭の大臣殺しで見せる、幼児洗礼と暗殺のコントラストなど、脚本の随所に光る部分がある。全世界を股に掛けたスケールの大きなドラマに、冷戦後の民族紛争というテーマを持ってきたのも、いかにも90年代後半の映画です。特に「地域の民族紛争への国連介入を、地元の人間は必ずしも快く思っていないのでは?」という問い掛けは新しいし、ハリウッド製大型アクション映画に不釣り合いなほどシリアスな物だと思う。そして案の定、このあたりは未消化なままになっているのだが、今回は意欲を買って不問にしてもいいと思う。この映画の問題は他にある。

 アクション映画の構成の基本は、活劇の量的エスカレーションで物語を盛り上げてゆき、クライマックスでは一転して、それまでのアクションとは別の調子にトーンを変化させることにある。流行のポップスなどと同じです。同じフレーズのコーラスが2度続いたあとに、一度転調してボーカルの聴かせどころを作り、またもとのコーラスに戻ってくる。こうした変化がないと、歌手がどんなに熱唄しても、全体にノッペリとした印象になってしまうのです。『ピースメーカー』がこれだけ質の高いアクションシーンを連発していながら、全体では平板な印象になるのは、クライマックスでアクションを転調しそこねたからだと思う。最後の徒歩での追跡は、それまでの列車やトラックやヘリを使った機械化アクションから、生身のアクションへの「変化」なのですが、この映画ではそれを「変化」として描き切れていないため、アクションがスケールダウンしたように見えてしまう。本来のクライマックスが機能していないため、アクションの頂点がトラック落ちで止まってしまうのです。

(原題:THE PEACEMAKER)



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