同居人
背中の微かな笑い声

1998/02/09 東劇
まわりくどい親殺しのアイデアはユニークだけど視点が分散。
誰にも同情できない生ぬるい映画だ。by K. Hattori



 松竹のシネマジャパネスクが劇場を東劇に変えたもののこの路線自体が取り止めとなり、『CURE/キュア』の後に上映が予定されていた『黒の天使 Vol.1』の公開も宙に浮いたままの中で、急遽公開された英国・カナダ合作映画。配給はヘラルドですが、あまりに急に公開が決まったので、試写もほとんど行なわれず、広告や宣伝のバックアップが皆無。僕も試写を観てません。当然、マスコミに作品紹介が載っていることがほとんどなく、僕も実際に観るまでどんな映画かさっぱりわからなかった映画です。配給会社からは試写状がわりに劇場の入場券を送ってきたので、時間の合間を見計らって観ることにしました。劇場は平日の昼間ということを差し引いても、閑散としすぎてます。東劇の次の番組というと、3月14日公開の『F〈エフ〉』かな……。それまで、この作品で引っ張るのは、かなり厳しいと思うけど。

 幼い頃に里子に出され、養父母から虐待された少年が、成長して自分を捨てた両親に復讐する話です。アメリカで社会問題になっている10代の母親や、児童虐待、幼少時のトラウマが原因と思われる異常性格、連続殺人事件などを盛り込みながら、息子による親殺しという古典劇風のストーリーを組み立てている。ただし、映画の出来はあまりよくない。物語の焦点が絞り切れず、漫然とエピソードを追いかけるだけに終わっている気がします。この物語は幾つかの視点から解釈することが可能だと思うのですが、そうした「視点」がこの映画にはない。この物語は「親に捨てられた子供の悲劇」を描いているのか、それとも「振り捨てたはずの過去に追われる恐怖」を描いたものか、あるいは「里子の虐待」という社会派なのか、はたまた「配偶者の秘められた過去が原因で命を狙われる不条理」を描こうとしたのか。

 この映画の筋立てに一番似ている映画は、言うまでもなく『ゆりかごを揺らす手』であり、その次が『冷たい月を抱く女』でしょう。もっとも信頼している隣人が自分に殺意を抱き、それと知らないまま、じりじりと追いつめられて行く恐怖。この手の映画は基本的に「恐怖」が中心だから、追いつめる側(加害者)より、当然追いつめられる側(被害者)の視点で物語を組み立てなければならない。ところがこの映画は“追いつめる側”に多大な同情を寄せているため、“追いつめられる側”の恐怖が伝わってこない。

 恐怖の根もとにあるのは、自分の理解できないものに対する本能的な恐れです。つまり、追われる理由が理不尽であり、理解不能であるほど、恐怖は増大する。この映画のように「私はかくかくしかじか、これだけの理由で彼を殺したいほど憎んでます!」と解説されてしまうと、加害者側を憎む前に同情してしまうんだよね。もっとも僕は、この映画の主人公(加害者側)に対し、毛ほども感情移入できませんでした。彼は親に捨てられたことを理由にして、自分の殺人願望を正当化しているだけだと思う。自身に非がないのに殺された人はお気の毒。

(原題:NATURAL ENEMY)



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