クーリンチェ少年殺人事件

1997/12/15 シネカノン試写室
台湾で実際に起きた事件に取材した、エドワード・ヤン監督の青春映画。
少年はなぜ少女を殺さねばならなかったのか? by K. Hattori



 4時間版というのもあるそうですが、僕が観たのは3時間版です。物語やエピソードに少しとぶ所があるので、4時間版ではそのあたりがもっとスンナリとつながっているのかもしれません。映画を観るにあたっては観る側の心構えというか、ペース配分というものがあって、1時間半の映画と、3時間の映画では気の入れ方が違います。映画のどこに注目するかという、着眼点も違ってくる。この映画の場合、時間配分自体は最初から3時間用に身構えていたのですが、着眼点を見誤って後半がしんどくなりました。これは単純に僕の失敗です。

 チャン・チェン演ずるシャオ・スーという少年の視点から物語が語られるのですが、映画の後半から物語の中で大きくクローズアップされてくるのは、リサ・ヤン演ずるミンという少女です。このミンがなかなかつかまえ所のない少女でして、本当のところで何を考えているのかまったくわからない。おとなしそうな顔をして、見えないところでいろんなことをやっていることが、中盤から徐々に明らかになってくる。そのあまりのギャップに、僕はもうお手上げ状態でした。単純に言ってしまえば、「女って恐いなぁ」という陳腐な台詞で片付いてしまうような内容なんですが、単なる悪女とかファムファタルとかいう一面的な描写ではなく、さまざまな事情から彼女がそう生きねばならなかったことが描かれてる。最後まで映画を観ると「ああ、なるほどな」と腑に落ちるのですが、中盤の混乱具合が非常に気持ち悪い。

 この気持ち悪さは、結局のところシャオ・スーが感じている気持ちの悪さや不愉快さに、観客が感情移入しているからこそ感じるものです。シャオ・スーが思い描いていたミンの姿と、彼が知り得なかったミンの姿のギャップに彼は戸惑い、気持ちは大きく揺れ動く。その揺れに同調するように、観客も戸惑いや動揺を共有することになる。ラストシーンでなぜシャオ・スーがミンを刺さねばならなかったのか、言葉ではうまく説明できないけれど、映画を観ている範囲では、彼がそうする必然性がきちんと納得できてしまう。

 この映画を2度観れば、たぶん最初に観たときとは違った細かなエピソードに気がつくと思う。そこではミンのキャラクターもきちんと描写され、最後の事件に至る伏線がいたるところに張られているはずです。でも、また3時間かけてそれを確認するのはしんどそうなので、僕はあえてそれをやらない。しばらくして、ほとぼりが冷めた頃に、また観直したい映画です。公開は2月だから、その頃にはほとぼりが冷めているかな……。

 中盤にやくざの抗争場面があるのですが、これがすごい迫力。手に手に日本刀を持った男たちが敵対するやくざの溜まり場を襲撃し、相手構わず無茶苦茶に斬りつける。電気が切れて真っ暗になった室内で、人々の怒声と悲鳴、肉を切る音、日本刀がコンクリートの床や柱にぶつかって立てるザリンという鈍い金属音が響き渡り、明かりがつくとあたりは一面の血の海。恐いなぁ……。


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