なにわ忠臣蔵

1997/08/13 KSS試写室
「忠臣蔵」の物語やエピソードを、現代やくざ社会に翻案。
アイデアにもうひとひねり欲しかった。by K. Hattori



 やくざの世界を舞台に、「忠臣蔵」を現代に翻案するというアイデアは悪くないと思うけど、過去に何十回も映画化されている「忠臣蔵」をあつかうからには、そのアイデアを越えた何かがないと駄目だと思う。この映画は赤穂浅野家を浅野組に、吉良家を吉良組に、上杉家を上杉組に読み替え、城代家老の大石を元浅野組若頭に置き換えただけで、話の筋立ても人物配置もエピソードも、全部「忠臣蔵」そのもの。元禄時代の仇討話を現代に甦らせただけでは、物語と時代背景はちぐはぐになって当然です。この映画はそのちぐはぐさを無視して物語を強引に進めたため、アイデア倒れのひとりよがりな作品になっている。このちぐはぐさを逆手にとって、現代を批判するテーマを盛り込むこともできたはずですが、そうした発想がこの映画からはぽっかりと抜け落ちている。

 そもそも元禄時代の吉良邸襲撃事件だって、当時の時代背景から考えて、かなりちぐはぐな出来事だったのです。世の中は平和で消費経済が発達し、きらびやかな町人文化が咲き誇った元禄時代と、バブルの余波も落ち着き、暴対法の影響もあってやくざが社会の隅に押しやられている現代を対比させることは容易でしょう。元禄時代の武士も、現代のやくざも、庶民たちからは過去の遺物だと思われている。その遺物の意地をかけて行動を起こすから、そこにある一片の矜持に庶民は称賛の声を送るのではないでしょうか。元禄の仇討事件に材をとった「忠臣蔵」は、当時の世相とかけ離れた浪士たちの行動が、一種の悲劇性や悲愴美を生み出している。ところがこの『なにわ忠臣蔵』は世間と離れ、ひたすらやくざ社会の内部でのみ物語が進行するため、「忠臣蔵」という芝居が本来持っていた悲劇性が浮かび上がってこないのです。平和な社会との接点になるべき女たちや家族の物語が、かなり弱くなっているのが原因でしょう。

 ここまで徹底的に原作の「忠臣蔵」をなぞっておいて、肝心の討入を12月の雪の日に持ってこないのも不可解。単に予算がなかったためだと思いますが、討入こそ「忠臣蔵」のハイライトなんですから、これでは詐欺みたいなものです。やむを得ず時期をずらすにしても、この場面には相当の工夫やアイデアが必要だと思う。どこかで「忠臣蔵」を踏まえないと、この場面だけが映画全体の中から浮いてしまうよ。方法はいくらでもあると思う。アイデアなんて、素人の僕でもすぐに何十個か考えられます。プロに同じ事ができないはずありません。

 この秋は『OL忠臣蔵』という映画も公開され、時ならぬ「忠臣蔵」翻案対決になります。(正確に言えば、『OL忠臣蔵』は「忠臣蔵」の翻案というわけではないけど。)僕の個人的な意見を言えば、男所帯の『なにわ忠臣蔵』は、女ばかりの『OL忠臣蔵』に面白さやアイデアで負けてると思う。なんだか情けないぞ。面白いことに、長門裕之は両方の映画に出演してます。役柄は正反対ですが、これも『OL忠臣蔵』の方がいいんだよね。


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