ノーマ・ジーンとマリリン

1997/08/05 ガスホール
(完成披露試写会)
没後35年目に公開されるマリリン・モンローの伝記映画。
切り口は面白いが、アイデア賞どまり。by K. Hattori



 マリリン・モンローが自宅のベッドの上で受話器を握ったまま死亡しているのが発見されたのは、1962年8月5日のことでした。今年はそれから35年目にあたります。この映画は12月に公開されるお正月映画なのですが、マリリンの命日である8月5日に完成披露試写が行われました。東京では同じ日からデパートで「マリリン・モンロー展」が開かれましたし、秋からはバービー人形のモンロー・バージョンが登場します。今のところ旧作のリバイバル情報などは入っていませんが、新宿シネマ・カリテあたりで、モンロー特集をやってくれないものでしょうか。『ノーマ・ジーンとマリリン』のデキがちょっと残念な物なので、余計にそう感じます。

 この映画では、主人公を二人の女優が演じます。映画スターを夢見る女、ノーマ・ジーンを演ずるのは、『ヒート』『評決の時』のアシュレイ・ジャッド。ハリウッドを代表するブロンドのスーパースター、マリリン・モンローに扮するのは、『ビューティフル・ガールズ』『誘惑のアフロディーテ』のミラ・ソルヴィーノ。この映画では主人公がマリリンとノーマ・ジーンというふたつの人格に分裂して行く過程を、二人の女優を共演させることで表現しているわけです。この解釈と表現はアイデア賞ものだと思います。マリリンの人生を語るとき、彼女がノーマ・ジーンとして生きた不幸な生い立ちについては避けて通れない。この映画ではノーマ・ジーンとマリリンを分けることで、これをものすごくわかりやすい関係に置き換えることに成功しています。

 ただし、この映画が成功しているのはこのアイデアまで。主人公であるマリリンとノーマ・ジーンについては、性格付けや役割分担が不明確なのが気になります。これは「二人一役」を思い付いた時点で、ある程度強引に性格を割り振ってしまうべきだったと思う。例えば、愛情に飢えて幸せな家庭を求める保守的な女と、ハリウッドの中で他者を出し抜き勝ち抜くことを追い求める利己的な女とに分けてしまうとか……。ふたつの人格が互いに敵対関係にあることで、マリリン・モンローという人物の複雑さや多面性が浮き彫りになってくるんだと思うのです。この映画では、ノーマ・ジーンが何のためにマリリンの前に現われるのかよくわからない。

 映画スターの伝記映画にしては、悲劇的で惨めな私生活の面のみを強調しすぎです。愛に飢えた飲んだくれのジャンキーという「裏の顔」ばかりが目立って、アメリカのセックスシンボルにまで登りつめた、きらびやかなスターという「表の顔」が弱すぎるのです。彼女が自分の私生活を担保にして、ハリウッドの中で成し遂げた業績を、この映画はほとんど描こうとしない。僕はこうした作り手の態度から、マリリン・モンローという女性に対する敬意も同情も感じ取ることはできなかった。そもそも表の顔をきちんと描いてこそ、裏の顔が生きてくると思うんだけどな。35年前に死んだ女優のゴシップになぞ興味はない。伝記映画としては失敗でしょう。


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