日陰のふたり

1997/07/10 徳間ホール(試写会)
あまりに悲劇的な結末なので、デートで観るのは避けた方がいいかも。
ケイト・ウィンスレットの魅力がこの映画のすべて。by K. Hattori



 主人公二人は「結婚しなかった」のか「結婚できなかった」のか、それがよくわからない。どちらに取るかで、映画の解釈ががらりと変わりかねないだけに、このあたりはもっと明確に描いておいてほしかった。原作はトマス・ハーディの「日陰者ヂュード(ジュード)」。原作が岩波文庫から出ているようなので、それを読めばこの疑問は一気に氷解ですね。それにしても暗澹たる結末。ハーディの小説は「テス」を以前に読んだことがあるけど、あちらも暗澹たる結末だった。(ちなみにポランスキー&キンスキーの映画版は観ていないのです。)善良で誠実な人間たちが、精一杯生きようとすればするほど、世間の荒波に押しつぶされてどんどん不幸になって行くところは、「テス」もこの映画も同じですね。

 この映画の魅力は、一にも二にもケイト・ウィンスレットにある。『乙女の祈り』『いつか晴れた日に』と続けて観てきているけれど、今回の『日陰のふたり』は彼女にとってもベストの作品だと思います。相手役(というより主人公)のジュードを演じたクリストファー・エクルストンも、奥行きのあるいい芝居を見せますが、ウィンスレットの肉体が持つ存在感にはかなわない。序盤でややもたついていた物語は、彼女が画面に登場したとたんに俄然生き生きと活動しはじめ、それ以降はもっぱら彼女がひとりで物語をリードして行く。

 彼女がひとり画面にいるだけで、そこがパッと明るく見えますから、彼女にはスターの素養があります。芝居は一本調子なところもありますし、人物の心理のひだに分け入るような微細な表現はしていないのですが、そうした細々としたところは周囲の上手な役者たちに譲っている。彼女自身は細かい芝居をしなくても、周りが物語に細かなタッチをつけてくれるのですね。彼女はスーという女ではなく、ケイト・ウィンスレットとして画面に存在しているだけですが、それがとても印象的でした。

 ウィンスレットの魅力だけで映画の8割ぐらいを食ってしまっているので、他の部分がかすんでしまいがち。それでも、主人公ジュードを翻弄する妻アラベラの描写は感心しました。単純な悪妻や奔放な女というカテゴリーに押し込んでしまうのではなく、過酷な社会の中で生き延びて行く術に長けた、生命力あふれる女として描かれています。飼っている豚を殺す場面で見られるアラベラとジュードの対比は見事でしたし、その後もしばしば主人公の前に現われる彼女の姿は、強いところもあり弱いところもある生身の女として描かれていました。

 結婚していないジュードとスーのカップルは、社会のモラルに反した者たちとして風当たりが強いのですが、それが二人の愛情をより強くしているようにも見えました。でもそんな関係は、ある事件を境にもろくも崩れ去る。一見強い女に見えたスーの中には、「モラルの枠の中で社会に庇護されて生きたい」という普通の女が隠れていたということでしょう。そのあたりがウィンスレットの芝居から見えないのが、唯一の小さな傷かな。


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