イングリッシュ・ペイシェント

1997/06/04 ミラノ座
同じ映画を2度観ると、前とは違った発見があって面白い。
前回は絶賛したので今回はちょっと傷を探す。by K. Hattori



 僕にしては珍しく2度目の鑑賞。前回観たのが丸の内ルーブルでの先行ロードショーで、これが超満員。前から3列目ぐらいの一番端っこに近い席という、最悪の場所で鑑賞するはめになったので、ワイド画面の縦横比がひしゃげ、全体に台形のパースがかかってました。あんまり悔しいから、ぜひとも次は中央の席で観たいと思った次第。今回は映画の日の割引料金という絶好のタイミングをはかり、新宿のミラノ座に駆け込みました。

 映画館に入って大ショック。映画が公開されてから1ヶ月たっただけで、こうなっちゃうもんなのかなぁ。広い劇場とは言え、空席がやたら目立つのです。平日最終回の歌舞伎町で、映画の日なのに、客席はだいたい2〜3割の入り。アカデミー賞を取っても、観客動員なんて瞬間的なものなんですね。おかげでお気に入りの場所に、ゆっくりと座って映画が観られましたけど……。

 同じ映画を2度観ると、映画の素晴らしさも再確認できるけど、アラも見えてきます。この映画の場合、やはり脇の人物の描き方が薄っぺらで、深みがないように感じました。キャラクターの描き方が、いかにも表面的なんです。これは主人公の視点から見た一人称の想い出だから、これはこれでいいのかもしれませんけど、あと半歩でも踏み込んで行くと、映画にもっと幅や奥行き、物語としての強靭さが出てきたと思います。

 物語のキーになる人物は、ウィレム・デフォー演じるカラヴァジオという元スパイです。主人公の裏切り行為によって傷つき死んでいった人々の代表として彼は物語に登場するわけですから、彼の憎悪や復讐への衝動が、もっと強く押し出されてこなければならない。そうすることではじめて、後先を考えない主人公の無分別な行動や、それを引き起こしてしまったキャサリンへの一途な愛が大きく浮かび上がってくるのだと思う。物語のラストでカラヴァジオはアルマシーを許したのは、カラヴァジオが失ったものより、アルマシーが失ったものの方がはるかに大きいからです。カラヴァジオの持っていた苦痛や憎しみがどれほど大きくても、それ以上にアルマシーは深く傷ついている。両者が抱えている痛みの対比が、この映画の中ではあまりうまく機能していなかった。

 全体の構成がすっかり頭に入った上で映画を観ているので、芝居を見ながら「この台詞はもっと強く押した方が後から効果が出るのに」とか、「この芝居が複線になっているのにあまり印象に残らないな」と思えるような部分もたくさんある。キャサリンに去られたアルマシーは、彼女に裏切られた気持ちになっているし、彼女を愛しながらも憎んでいるはずです。そんなふたりの気持ちがあってこそ、「泳ぐ人の洞窟」に向う途中、キャサリンの首にかけられた指ぬきと、彼女の「ずっと愛していた」という台詞で氷解する心理的なカタルシスが生まれるのです。映画は「愛するがゆえの憎悪」をぼかしてしまったから、この場面から本来生まれるべき効果が生まれていないように思えました。


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