うなぎ

1997/05/24 丸の内ピカデリー1
妻殺しの過去を持つ男と、自殺未遂をした女の、セックスなき愛情と絆。
カンヌ映画祭グランプリ(パルム・ドール)受賞作。by K. Hattori



 今村昌平監督が『黒い雨』以来8年ぶりに撮った新作が、カンヌ映画祭で最優秀作品賞(パルム・ドール)に輝いた。これ自体はじつにめでたいことなのだが、今この時期にこの作品で賞を取ることに対して、今村監督自身は複雑な心境に違いない。映画を観ればわかることだが、この映画で今村監督は全力を出しきっていない。きびしい製作環境の中で、何とかハズレのない作品を作ろうとした結果、自身のカラーを前面に打ち出すことを避け、徹頭徹尾「無難な作品」を目指しているような気がするのだ。配給元の松竹は受賞に大はしゃぎしているが、受賞前にこの作品の広報宣伝活動をほとんどしてこなかったことを考えると、松竹社内でこの作品を見捨てていたことは明白。カンヌでの受賞がなければ、松竹はこの映画と監督をどうするつもりだったのだろう。もし松竹がこの作品の受賞を心から祝福するつもりがあるのなら、今村監督の次回作を、ぜひとも松竹本体で撮らせることで、その誠意を示さなければならない。

 問題の映画の中身は、規模が小さいながら、誰にでもわかりやすく大きな傷もない、心あたたまる佳作に仕上がっている。ここで描かれているのは、地縁や血縁を媒介としない「エロスなき人間関係」の姿だ。この映画には、普通の夫婦像や家族像がほとんど描かれていない。映画の冒頭で主人公の山下拓郎は浮気している妻を刺殺してしまうし、映画のラストで暗示される拓郎と桂子の新しい生活でも、生まれてくるのは拓郎とは血のつながりのない子供だ。船大工の高田は妻を亡くした男やもめ。UFOマニアの青年にも、相川翔扮する祐司にも、家族や家庭の描写がない。常田富士男と倍賞美津子の夫婦にも、既に性的な関係はなさそう。駐在の家庭には茶髪の息子がいるが、妻の影は薄い。

 主人公が垣間見る、妻と見知らぬ男のセックス。桂子と堂島のセックスは、男が女を体で縛ろうという魂胆が見え見えで、愛情のかけらもない。心を病んだ桂子の母は、娘の恋人堂島に色目を使う。服役仲間の柄本明は、静かに社会復帰後の生活を送る主人公に嫉妬して、清水美砂をレイプしようとする。この映画に登場するセックス描写は、憎悪と嫌悪の対象だ。拓郎と桂子は、結局一度もセックスしないまま結婚を決める。彼らの結婚生活は、ひょっとしたら一生セックスなしの関係になるかもしれない。一般的な尺度からみると、これはかなりいびつなカップルなのだが、この映画ではそんなふたりを温かい目で見つめ、「人間同士の絆はセックスだけじゃない」と宣言しているようにも思えた。

 妻の浮気を告発する匿名の手紙が、じつは主人公の妄想なのではないかという話が出てくるが、これは僕には不要な話に思えた。手紙が妄想なら、主人公を口汚なくなじる柄本明も妄想である可能性がある。これを突き詰めると、主人公の主観的な世界と現実世界の二重性という、今とはまったく別のテーマが浮かび上がってくるのだが、映画はそこまで踏み込まない。これはこれで正解。


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