太陽の少年

1997/04/12 テアトル新宿
文革期の北京を舞台に年上の少女への憧れを綴った切ない青春ドラマ。
映像・役者・音楽、三拍子揃った傑作映画だ。by K. Hattori



 文化大革命の時代を描いた中国映画だが、文革の暗さや悲惨さではなく、どんな時代にも共通する青春ドラマを作り上げている部分が新鮮。主人公は北京の下町(どこが山の手でどこが下町なんだか?)に暮らす不良少年で、学校の授業は抜け出す、家にはなかなか帰らないという、手の付けられない悪がき坊主。合鍵を作るのが特技で、昼間は留守になった家に侵入し、夕方は家の屋根を猫のように徘徊し、北京の町並みを見下ろしながら煙草をプカリと一服。悪がき仲間とつるんでは、何をするでもなくダラダラとたむろし、時にはケンカに血道を上げる。毛沢東に熱狂する人々を尻目に、そことは一歩離れた場所で青春を謳歌する少年の姿から、時代や場所を超えた普遍的な思春期の情景が描かれます。

 とにかく映像が美しい。オープニングからぐいぐい映画に引き込まれて行くのは、ひとえに映像の力でしょう。登場人物たちもそれぞれ存在感があり、体臭や汗の臭いまで伝わってくるようなリアリティを感じさせます。カメラマンは、『さらばわが愛/覇王別姫』のクー・チャンウェイ。どの場面のどんなカットも、一分の隙もない完璧な構図と美しさ。この映画の感動の半分は、彼のカメラによるところが大きい。全体にオレンジ系の色でまとめられた画面設計も、セピアやアンバー系のノスタルジック調に陥ることなく、少年少女たちの若々しいエネルギーのほとばしりを感じさせます。

 70年代半ばの北京は文化大革命の真っ最中で、大人たちは政争に明け暮れ、若者たちは軍隊に入り、町の中は子供たちしかいなかった。こうした「子供たちだけの町」というイメージは、当時の北京だけでなく、どんな国のどんな子供たちでも持っている、共通した原風景ではないだろうか。同世代の子供同士で遊んでいる時は、周囲の大人たちなんて関係ないもんね。大人の庇護を離れ、自分たちだけの世界を作り始めるのが思春期です。この映画が描いている「文革期の北京」は、そうした子供の持つ世界を、象徴的に描いているのだと思う。

 思春期を迎えた少年の年上の少女への憧れや性の目覚めを描く物語は、さして目新しいものではないと思う。自分と親しい女性が、自分の兄貴分と仲良くなってしまうという話も、東映のやくざ映画なんかによくありますよね。実際の体験談がどうあれ、こうした「感覚」はどんな思春期にも共通してあるものだと思うし、この映画は確信犯的にそこを狙いすまして突いてくる。映画の終盤ではそれがあからさまになります。

 映画の前半から中盤にかけての瑞々しい魅力に比べると、終盤は映画を終らせるために少々無理しているような気がした。それまでのゆったりとしたテンポが壊れ、駆け足でゴールに向かうようで違和感があるのだ。だがそれがこの映画の傷になっているかというと逆で、最後のゴタゴタした話があるからこそ、それまでのエピソードが輝いて見えるのだと思う。レストランでの逆回しがなければ、ここまで強い印象が残ったかどうかは疑問だ。


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