月とキャベツ

1997/01/05 テアトル新宿
長期充電中のミュージシャンのもとに押しかけたひとりの少女。
話は平板だけど最後の歌には涙が出た。by K. Hattori



 バンドを解散した後、歌えなくなったミュージシャン花火。山の中でキャベツ栽培に精を出している彼のもとに、ファンだという女の子が強引に押しかけてくる。彼女はヒバナと名乗る。芸能人のプライベートに見ず知らずのファンが無理矢理押しかけるとなると、これは今ハヤリのストーカーという路線も考えられるのだけれど、この映画はそんな話ではない。この出会いのくだりは、物語の導入部として、もうひとひねり欲しかったような気もするな。ここがもう少しなめらかに滑り出せば、その後の展開も随分と楽になったんだけど。

 花火は結局ヒバナと一緒に生活するようになる。これ以降は物語が走りはじめていい感じ。若い男と女が一緒に暮らすと言っても、ふたりの関係はミュージシャンとファンであり、家出人と保護者であり、兄貴と妹分みたいなもので、恋人同士といった浮ついた関係にはならない。このあたりの関係も、わりとすんなり受け入れられた。二人の間を阻んでいるものは、花火の頑なな気持ち。彼が歌えない、歌が作れない理由は定かにされていないのだけれど、それが彼の生活の上で大きな障害になりつつあることがやんわりと描かれる。花火を見守るダンカンと鶴見辰吾が、温かい芝居をしていて印象的だ。

 天真爛漫なヒバナの姿に、固く閉ざされていた花火の気持ちも少しずつ解きほぐされ、やがて彼女のために新しい曲を作りはじめる。こうした展開は最初から予想されていたことだし、二人が最後まで結ばれないであろうことも映画の中で何度か暗示されている。そういう意味では、この映画のオチは中盤で既にバレていると言える。

 ヒバナの正体は誰か、何のために花火のもとにいるのか、という謎が物語のひとつのキーになっているわけだが、彼女の正体はクライマックス手前で観客の前に明かされてしまう。僕はここで少し拍子抜けした。こういうのは、最後の最後に明かすのが定石ってものでしょ。ところが映画を観るとわかるのですが、この映画の場合は、ここで彼女の正体をばらしてもいいんです。本当のクライマックスは、映画の最後の最後にある。

 物語の中で断片的に演奏されていた新曲が、花火のピアノ弾き語りで歌われるのがこの映画のクライマックス。花火を演じている山崎まさよしがは本職が歌手ということもあって、吹き替え無しにテーマ曲を熱唱。これが胸を打つ。本物の歌声が持つ、生のリアリティがびしびしハートに届くのだ。それまで少し覚めた目でこの映画を観ていた僕だが、この場面では一気に物語の中に引き込まれた。歌う花火の姿をただ撮っているだけなのに、なぜか涙がポロポロ出るのですね。窓から差し込む月明かりの中にヒバナの姿が浮かび上がる場面など、映画館の中で泣き笑いでした。

 主演のふたりは、ほとんど新人と言ってよいキャリア。しかし、花火役の山崎まさよし、ヒバナ役の真田真垂美が、ともに初々しい個性を振りまいている。この映画の魅力は、彼ら二人の魅力だろう。共に注目株だ。


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