最後の攘夷党

1996/12/14 大井武蔵野館
終戦直後に進駐軍に媚びて作った国民啓蒙映画。
アメリカ人ハ親切デ、イイ人タチバカリデ〜ス。by K. Hattori


 原作菊池寛、稲垣浩監督、嵐寛主演の珍品映画。製作されたのは終戦直後の昭和20年12月。明治政府に反乱を起こした攘夷党の生き残りが、長い逃亡生活の後に新しい人生を見つけるまでを描いている。時代劇の素材として、これはわりと面白いかもしれない。しかし、この映画ではそれが露骨に「敗戦国民の心情」とオーバーラップするような作りになっているところがあざとい。

 攘夷を訴え、神国日本から外国人を排斥せよと政府に反乱を起こした氏族たち。しかし彼らは、憎むべき外国の武器である最新型火器の威力の前に次々と倒れる。「我々に夷狄(いてき)の武器が通用するはずがない。我々には神がついているのだ」と日本刀でライフルに立ち向かう主人公たちだが、そんな精神主義は戦いの場で何の役にも立ちはしない。主人公の目の前で撃たれた戦友は「俺たちは間違っていた。刀では鉄砲に勝てぬ」と苦しげに叫ぶ。これは圧倒的な火力に打ちのめされた、昭和20年の日本国民の気持ちそのものでしょう。

 この戦いの後、主人公は最後の死に場所を探すかのように各地をさまよう。行き着いた長崎の町で、笠智衆演ずる画家と「攘夷党の行動の是非」を論じ合う場面は面白かった。「攘夷党だなどと言っても、それは既得権を失った士族たちの不満が爆発したにすぎない」「神風頼りの戦は手前勝手に神を利用する冒涜だ」と言い切る笠智衆。戦争中の軍部批判、政府批判なんでしょうね。

 この後、追手から逃れて廓の遊女にかくまわれた主人公は、最後の死に場所を求めてアメリカ人牧師一家の襲撃を決意。逆にピストルで撃たれて瀕死の重傷を負う。生と死のはざ間で主人公が見る幻想は、同じ稲垣監督の『無法松の一生』みたいで面白い。でも、この映画が面白いのはここまで。これ以降の噴飯物のストーリー展開には、思わず劇場のイスから転げ落ちそうになった。

 殺そうとしたはずの牧師に、逆に命を助けられた主人公は、やがて改心して180度の大転向。英語を勉強してアメリカ留学に行ってしまう。嵐寛が下手糞な英語を喋るシーンは滑稽としか思えないんだけど、これは話の組み立てが苦しいからで、全ては脚本が悪い。映画の前半は面白かったのに、後半はぜんぜん別の映画になってしまっているのだ。同じ結末を迎えるにしても、もっと上手いやり方はあったはずだと思う。

 牧師一家の献身的看病と西洋医学の力によって、脚に重傷を負った主人公が歩けるようになることだけでは、主人公の心変わりを説明するには弱い。何かもうひとつエピソードが必要だ。主人公の欧米人に対する偏見や敵意が、牧師一家との交流で消えてゆく様子が仮に納得できたとしても、そこからアメリカ留学までの道のりは遥かに遠いはず。映画ではそこを説明しきれないまま、主人公が生まれ変わるきっかけを「クリスマスの夜の奇跡」で誤魔化している。この場面が納得できなければ、この後の主人公の変節ぶりは、ひたすら無節操で軽薄で滑稽なものにしか見えない。これはブザマだ。


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