記憶の扉

1996/11/16 シネスイッチ銀座
監督は『ニュー・シネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレ。
ドパルデューがスランプに苦しむ作家を熱演。by K. Hattori



 『ニュー・シネマ・パラダイス』で観客の涙腺調節をおかしくさせたジュゼッペ・トルナトーレ監督の新作は、降り続く雨に打たれる森の中の警察署を舞台に、殺人容疑をかけられた作家を警察署長が尋問するミステリー。土砂降りの雨と夜の闇が、森の中の警察署を逃げ場のない密室に変える。足元から冷気が這い上がって来るような石造りの建物。天井からはひっきりなしに雨漏り。窓の外の雷鳴と稲妻。停電と電話の不通が、閉塞間を盛り上げる。最後のオチはここに書けないが、今年観た映画の中では『ストレンジャー』の次ぐらいにびっくりした。

 深夜の森でずぶ濡れになっているところを保護され、殺人容疑で身柄を拘束された作家オノフに扮するのは、大男ジェラール・ドパルデュー。彼を尋問する警察署長はロマン・ポランスキー。署長は作家の大ファンで、尋問を始める前から作家について事細かに知っている。自分は情況を何も知らされぬまま、自分の無実の証明だけを求められる不条理。自分は相手が何者か、そもそも自分のいる場所がどこかも正確にはわからないというのに、相手は自分のことを何もかも知り尽くしている。

 なぜ自分は森の中を身分証も持たず、ずぶ濡れのまま歩いていたのか。自分はどこから来たのか。パニック状態の主人公には、それを思いだすことができない。断片的な記憶の中に現れる、鮮明な銃撃のイメージ。シャツには大きな血痕。これは誰かの返り血だろうか。彼は署長の執拗な尋問を受けながら、記憶のかけらを少しずつ手繰り寄せ、失われた記憶を徐々に取り戻してゆく。

 カフカ的な不条理劇の世界。どことなくシュールで現実感のない警察署。理不尽な扱い。これはきっと夢だ。たちの悪い悪夢に違いない。毛布を跳ね除け、ベッドから起き上がる主人公。「ああ、恐ろしい夢を見た。俺は編集者を殺して警察に尋問されるんだ。署長は俺以上に俺のことを知っている……」。だが、それは夢ではない。そこは警察の中にある小さな部屋の中だ。

 主人公の神経を逆なでする数々の出来事が、そのまま観客を直撃する。水の流れないトイレ。年中不通の電話。雨漏りで水浸しの床。嵐の中で運び込まれる死体。戸棚の中のねずみ取り。インクの出ないボールペン。中でもボールペンのくだりは、映画を観ているこちらまでイライラしてしまった。昔はよくああいうことってありましたよね。最近はボールペンの質が良くなったのか、インクが途中で切れるってこともあまりなくなりました。

 最後に現れた恐るべき真実に、驚かない人はいないはずだ。署長の尋問に追い詰められた主人公の頭の中で、それまで断片的に提示されていたイメージがひとつにまとまってゆく。主人公は何をしたのか。映画の冒頭で現れた銃撃映像や、シャツの血痕がどうして出来たのか、すべてが鮮明になってゆく怖さと恐ろしさ。

 ミステリーとしてはちょっとずるいオチだって気もするけど、スリラーとしては一級の出来栄え。唯一の欠点は、映画の中に女っ気がないってことだな。


ホームページ
ホームページへ