夢野久作の
少女地獄

1996/09/01 大井武蔵野館
ピーター・ジャクソンの傑作『乙女の祈り』を彷彿とさせる力作。
エロチックで幻想的な少女二人の愛憎関係。by K. Hattori


 思春期の少女が持つ、大人の世界への憧れと、大人になることで自分が汚れて行くことに対する嫌悪感。子供のままでいたいと願いながら、身体だけは大人になってしまうアンバランスな感覚。聖と俗、優しさと憎悪という両極端なものを、ひとつの肉体の中で体現している少女たち。エロチックで、幻想的で、生々しく、清涼感と腐臭とを同時に併せ持つ映画。

 女学校に通うの二人の生徒がレズビアン的な友情を育み、それを引き裂こうとする大人たちに復讐するという筋立ては、ピーター・ジャクソンの傑作『乙女の祈り』を彷彿とさせる。ひとりは金持ちの美少女で優等生、もうひとりは貧しく器量もよくなく成績も平凡、という人物配置まで同じ。処女喪失シーンがあることまで共通している。僕はこの映画が一部で『乙女の祈り』を凌ぐとさえ感じたが、ポルノ映画という制限から生まれる性的描写の執拗さが、映画の全体像をいびつにし、完全に閉じた世界を完璧に描ききった『乙女の祈り』にその点で及ばない。二人の少女が密接に結びついて行く過程が、他の描写に比べてもうひとつ弱いとも思うが、まぁそんなことは小さな問題にすぎないけどね。

 小さな描写がすごく触覚的で木目細やかなのに、時々はっとすることがある。処女を失った少女が夜の海岸で波に打たれるシーンでは、夜の海の匂い、多少の熱を残した砂が足の裏に与える温もり、波打ち際の冷たく固まった砂、波に洗われ流されて行く砂粒の頼りない手触り、顔にかかる海水のひどくしょっぱい味、打ち寄せる波に身体が持ち上げられる感覚、熱く火照った身体と冷たい波のコントラストなどが、画面からダイレクトに伝わってくる。こうした皮膚感覚に訴える描写は、彼女たちが戯れる白いゴム風船の描写や、随所に挿入されるボートの上の二人と水面の対比、それに、かなりの部分を占める屋外ロケシーンにも感じられるものだ。特に屋外シーンのみずみずしさには目を見張る。内向的で陰鬱な物語に、屋外シーンの明るさと透明さが涼風を入れる。

 こうした細やかな描写はエロチックなシーンでも存分に発揮されているが、何ヶ所かあるセックス描写は演出のややばらつきが目立つ。少女の父親が家に芸者を引き込んで情事にふける場面は、家族の愛憎関係を説明するだけで感興に乏しいし、校長の汚職を探るため少女が男に身を任せるシーンも表面的すぎる。父親への復讐のため、自室で乞食坊主とセックスする場面も同じだ。

 逆にこってりと粘っこいのは校長が少女の処女を奪うシーンで、破瓜の痛みに畳の上を逃げ回る少女を校長が押え込み、部屋の隅に追い詰める場面は「痛ましい」の一言。これで妊娠した少女が怪しげな堕胎治療を受ける場面は、酒をあおる校長と薄気味悪い子堕ろし婆さんの芝居が見もの。この後、ピアノの角に腹を打ちつけて子供を流す場面も壮絶。物語の最後の方で登場する少女二人のレズシーンも、幻想的な場面を作り上げている。これはすごくエッチで、しかも美しい名場面でした。


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