スーパーの女

1996/06/30 日本劇場
伊丹十三が宮本信子主演で撮った久々の「女」シリーズ。
話の展開に新味はないが手慣れている。ディテールは面白い。by K. Hattori


 伊丹十三とオリバー・ストーンは僕の中で少し重なる。どちらも社会的なテーマを描き、どちらも説教臭く、しかもしつこい。彼らの作る映画はいつもそれなりに観客を楽しませ、時に挑発し、扇情し、洗脳する。僕は彼らの作品があまり好きではない。

 伊丹監督は傑作アクション映画『マルサの女』の成功に気をよくして続編を作り、それも受けたので今度は『ミンボーの女』を作り、それがきっかけで暴漢に襲われて入院。転んでもタダでは起きない彼は、病院での経験をもとに『大病人』を作ったが、独り善がりが目立つ醜悪な失敗作だった。その後大江健三郎のノーベル賞にあやかって『静かな生活』を撮るが、僕はこれを観ていないのでコメントは差し控える。

 伊丹監督は現代映画作家にはまれな、映画から流行語が作れる監督だった。「だった」と過去形にしたのは、彼が「マルサ」「アゲマン」「ミンボー」以降、これと言った流行語を生み出していなかったからだ。思えばあの頃が彼の全盛期だった。伊丹映画の凋落は『ミンボーの女』から始まると僕は観ています。あの映画は「ミンボー」という言葉と伊丹監督の受けた傷以外、何も残さなかった。映画としてはやはり二流です。『大病人』は伊丹映画の嫌なところだけを寄せ集めたようなクズです。僕はあそこで伊丹十三の映画が大嫌いになって、もう二度と伊丹の映画なんて観るもんかと思った。その結果が『静かな生活』を観ないことにつながっている。

 今回伊丹監督の新作を観た理由は、彼が『大病人』『静かな生活』を経て、再び宮本信子主演のアクション映画『○○の女』シリーズに戻ってきたからです。残念ながら今回は映画から流行語が生まれそうにもありませんが、中身はかつてのような痛快な活劇に仕上がっています。脚本はこなれているし、演出も手慣れたもの。終盤のカーチェイスと、初売りでのふたつのスーパーの対比がやや強引すぎる気もしましたが、まぁ小さな傷です。

 この映画の面白さは、日ごろ我々が慣れ親しんだスーパーマーケットという場所の裏側を、たっぷりと見せてくれることにある。この映画を観ると、良いスーパーと悪いスーパーの見分けがつく目が養われたような気になれます。こういう「わかった気にさせる」ことが映画では大切。伊丹十三はその辺りがいつもうまい。

 人物配置や筋立ては、スーパーの裏側の面白さに比べたら脇役です。僕にとっては、スーパー内部で繰り広げられている経営者と職人の駆け引きや、パートとの対立、値引きの種明かし、詐欺まがいの不当表示の仕組みなど、裏話的な部分がたいそう面白かった。こうした雑多な情報を物語の中にきちんと織り込んでゆく技術というのはたいした物です。これで人物が立ってくると、逆にうるさかったかもしれません。これは情報を楽しむ映画だという風に、監督自身が半ば割り切っているのでしょうね。


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