陽のあたる教室

1996/04/22 草月ホール(試写会)
リチャード・ドレイファス主演の逆『フォレスト・ガンプ』。
名作との声が高いが、僕はこの映画を嘘っぱちだと思う。by K. Hattori


 物語の進め方が平板で、はっきり言って下手くそ。あざといまでに感動的な物語に仕上げようとして、見事に失敗している見本。リチャード・ドレイファスは30歳から60歳までを演じて熱演だし、周囲の役者たちのサポートも悪くない。ひとつひとつのエピソードもそんなにずれた感じのものはないし、クライマックスの段取りも定石通り。だけど感動しないのには明確な理由がある。

 監督の弁によれば、これは『素晴らしき哉、人生!』のような物語だと言うが、そんな言い方をするのは往年の名作に対して失礼というもの。同じ映画を引き合いに出していても、『ジュマンジ』の方がはるかによくできていたぞ。『素晴らしき哉、人生!』が感動的なのは、自分の人生に満足できず、現在の境遇を不本意に感じている主人公が、最後の最後で自分の人生を全肯定する部分にあるのです。この映画で言えば、主人公が教え子たちの演奏で「アメリカ交響曲」を演奏するラストがそれに相当するはずだった場面。でも、この場面は残念ながら、主人公の価値観が大逆転するクライマックスには仕上がっていないのです。

 作曲家志望の音楽家グレン・ホランドが、心ならずも教職に就き、徐々に自分の作曲の時間をとれなくなって行くいらだち。いつか作曲家として世に出てやろうという野心を捨てられないものの、このまま野に埋もれてしまうのではないかという恐れが日に日に大きくなって行く。自分の才能の最大の理解者であったはずの妻も、聴覚に障害を持った子供の世話にかかりきり。耳の聞こえない子供には当然、音楽の仕事なんてわからない。こうした鬱積した感情が積もり積もっているからこそ、歌手志望の若い娘に自分の作品を「美しい曲ね」なんて言われるとついフラフラしてしまうんだろうけど、映画ではそのへんがよく伝わってこない。

 主人公が口にこそ出さないものの、常に心の中に持ち続けているわだかまり。「今いる俺は本来の俺じゃない」という自己否定。「俺には別の人生があったんじゃないか」という不満。それが最後に「俺の人生は素晴らしいものだった」に変貌するカタルシスが、この映画から得られないのは残念。

 全編に時代を象徴する音楽や映像を挿入して物語を紡いで行く手法は、もろ『フォレスト・ガンプ』を彷彿とさせますが、音楽教師を主人公にしたわりには音楽の使い方はあまりうまくなかった。80年のレノン射殺前後のエピソードは、僕にはあんまりピンとこなかったんだけど、同じ世代の人だと感動するのかな。結局最後に残るのはガーシュインの「優しき伴侶を」が名曲だと言う事実だったりするわけだけど、あの歌手志望の少女がどうなったのか、僕は最後までそれが気になってしょうがなかったよ。


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