五月みどりの
かまきり夫人の告白

1996/03/31 大井武蔵野館
五月みどり云々より、山城新吾の軽さを再確認する映画。
映画自体はへなちょこの三流作品。by K. Hattori


 五月みどり演ずる主人公は、テレビのワイドショーで活躍するマルチタレント。大学教授の夫と共に、世間ではオシドリ夫婦と見られている。それには本人も不満はない。世間の風評というものは、それで衣食しているものにとっては便利なものなのだ。物語はそんな彼女が夫の浮気を知ったところから始まる。幸福に見えた結婚生活は、この瞬間水面下で破綻する。だが、この破綻は誰にも見破られてはならない。なぜなら、夫と別れでもしたら、自分のタレント生命は終わりである。でもくやしい。ならどうするか。そうだ、自分も浮気しちゃおう……。と、敏速かつ一直線に、誰でも考えそうなありふれた結論に達する五月みどり。彼女は貞節な人妻から、男を漁る淫乱な女に豹変するのであった。

 なにしろ20年前の映画だから、登場する五月みどりも当然20年前のまだ若いお姿。今とほとんど変わらぬ風貌とスタイルに驚きます。基本的に、この人は歳をとらないんだな。夫役の山城新伍が最近すっかり貫禄つけているに比べると、これは驚くべきことですよ。だけど、現在の彼女を知っている観客からすれば、なまじ彼女があまり変わらないだけに、映画の中の彼女がどうしてもおばさまに見えてしまうのだ。(当時でも十分におばさまだったのかもしれないけど……。)変わらないってことは、女優にとっては罪なことかもしれません。

 お話はナンセンスの極みで、彼女が女の色気を武器にして次々と意中の男を攻略し、男の精気を吸ってますます美しくなって行くのとは裏腹に、彼女と関係を持った男は次々と不幸になって行くわけです。男を食い殺して自分は太るカマキリだなんて、自分で言っていれば世話はない。要するに彼女は稀代のサゲマン女なわけです。こんな女に見込まれてしまった男こそ不幸というもの。「一時でも美味しい思いをしたんだからいいじゃん」という風に見えるかというと、必ずしもそうは見えないところがこの映画の弱さで、男がやすやすと網に掛かってしまうあたりは、カマキリというより獲物を狙うクモのようにも見えてしまいます。

 男をつかまえる、男と関係を持つ、男を捨てる、男は不幸になる、という一連のエピソードが何度も繰り返される構成なんだけど、五月みどりの脱ぎっぷりや濡れ場のエッチな描写がパワーダウンしてゆく感じがするのって僕だけかなぁ。相手の男はカーレーサーから始まって、隣家の婿養子、ホモの美青年、ゴルゴ13ばりの殺し屋とバリエーション豊富なんだけど、どんどんマンガチックになってゆくんだよね。(ホモが堂々と病気あつかいされているのは時代だねぇ。)夫役の山城新伍は傑作だけど、この夫婦の対決が最後まで不発に終わるのも不満だ。串のない串団子を食わされたような気分だった。


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