セブン

1996/02/22 スカラ座
『エイリアン3』のデビッド・フィンチャーが監督したサイコスリラー。
犯人の憎悪が監督の怨念にオーバーラップする。by K. Hattori


 デビッド・フィンチャーは『エイリアン3』で映画監督としてデビューしたものの、そのできのあまりの悪さに各方面からぼろくそにこき下ろされ、その後映画製作の現場から干されていた人。そんな彼が社会に復讐する連続殺人犯の映画を撮れば、そこには当然フィンチャー自身の個人的な恨み辛みも投影されて、身の毛もよだつような凄惨な映画になるに違いないと期待していた。有り余る才能(頭脳)を持ちながら社会から正当に評価されず、妙にねじくれて歪んだ社会に復讐しようとするこの映画の犯人の気持ちが、人並みはずれた才能を持ちながら糞みたいなシリーズ映画の脚本を押しつけられ、自分なりに精いっぱいの努力をしたのに脚本ともども糞扱いされたフィンチャーにわからないはずがない!

 ところが前作から何年も経っているのに、フィンチャーは相も変わらず「映像の人」なのでした。人物たちの心情描写はたっぷり脚本におぶさって、監督は絵作り一筋。確かに映像は素晴らしい。ミュージックビデオ出身監督らしく、音響にも凝っている。少し粗い映像はシャドー部分を黒くつぶして暗闇を強調しているのだが、この映像トーンが物語にとても似合っている。フィンチャー監督は動きのないシーンを撮ることにずば抜けた手腕を発揮する人で、決して活劇の人ではないようです。この映画でもミルズ刑事が犯人を追跡する場面の編集などは、はっきり言って下手だと思う。追っかけアクションの下手さは『エイリアン3』から全然進歩していない。

 さて、『エイリアン』と言えばリドリー・スコット、リドリー・スコットと言えば『ブレード・ランナー』と連想は連鎖して行く。フィンチャー自身『ブレード・ランナー』をかなり意識しているようで、『セブン』でも主要な場面では必ず雨が降るし、ミルズの犯人追跡シーンはほとんど『ブレード・ランナー』におけるレプリカント追跡の引用に見える。ビルの壁面にぶら下がるミルズを真上から見おろすカットは、ハリソン・フォードがビルからぶら下がるシーンと瓜ふたつ。ただしフィンチャーとリドリー・スコットは映像のテイストが異なっていて、スコットが闇の中の光を際立たせるのに長けているのに対し、フィンチャーはあくまでも闇そのものに執着しているように見える。今後はフィンチャー自身のスタイルに磨きをかけて欲しい。

 映画『セブン』は前半から中盤にかけてぐいぐい物語に引っぱり込まれた。だが終盤になって犯人が「計画を少し変更」したあたりからヨレヨレになってしまう。それまで何年も用意周到に計画してきた5件の殺人に比べると、最後の2件は取って付けたようで軽い。自身では罪を犯していない無関係な第三者を巻き込んだのも気にくわない。大傑作になるはずが、最後は腰くだけ気味でちょっと気になった。


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