むっつり右門捕物帖
鬼面屋敷

1995/12/03 大井武蔵野館
ユーモアとミステリーとアクションが渾然一体となった傑作。
監督は山本嘉二郎。センスいいんだよね。by K. Hattori



 僕は以前並木座で、戦前に作られた右門捕物帖を1本観たことがある。主演はこの映画と同じ嵐寛寿郎だったが、映画は1時間という枠に合わせるために本来の長さよりだいぶ短くカットされていたようで、物語の流れは飛び飛びだった。なんだかひどく物足りなく感じた記憶がある。しかし戦後に製作されたこの映画には、そうした不満はない。八丁堀同心の近藤右門を演じる嵐寛寿郎の、貫禄に満ちた演技をたっぷり堪能できる映画だった。

 戦前の映画では右門をライバル視する同僚の同心あばたの敬四郎を志村喬が演じていたが、なんと戦後のこの映画にも志村喬が出演している。もっともこの映画で志村が演じているのは、右門の上役である神尾元勝である。大した出世だ。この映画には右門の配下おしゃべり傳六に榎本健一、傳六の住む長屋の家主金兵衛に柳家金語楼など、豪華なキャスティングが組まれている。

 右門は必要なとき以外ほとんどしゃべらない故に「むっつり右門」なのだが、この映画を観ていると彼が特にしゃべらないのはおしゃべり傳六といる時だけで、他の時はしゃべるべき時にちゃんとしゃべっているように見える。右門は傳六といる時に極端に口数が少なくなるのだが、ひょっとしたら右門は傳六が嫌いなんだろうか。

 この映画のクライマックスは、やはり右門が鬼面屋敷に乗り込む最後の大立ち回りだろう。最後の最後まで右門がほとんど動かないからこそ、この立ち回りが大いに映える。寛寿郎の立ち回りは太刀筋がきれいで流れるような流麗さを持ちながら、同時に鬼気迫る豪快さを持ち合わせている。並みいる無頼浪人たちにじりじりと近づき、スッと動いたかと思うと2,3人をバサバサとなぎ倒し、体勢が崩れそうになったところでまたスイと刀を構え直して相手ににじり寄って行く。ひとりで十数人を相手にするというほとんどマンガのような展開だが、一連の殺陣はあくまでも写実的。寛寿郎の鋭い眼光が、フィクションである立ち回りにひときわの現実味を与える。画面のこちら側にいる観客にまで、寛寿郎の発する殺気が伝わってくるような鋭さだった。

 寛寿郎という人は立ち回りで相手に実際刀を当てなければ気が済まないという人だったらしいけれど、この映画の頃にもそうだったのだろうか。画面で観る限り、確かに刀はからみ役の身体に当たっているようにも見えた。少なくとも相手の身体に剣先が触れることを恐れない伸びやかな太刀筋にはスピード感がある。

 この映画を観て驚いたのは、アラカンの背の低さだった。奉行所で働く同僚たちの誰よりも、近藤右門は背が低い。この体格で大きく刀を振るうからこそ、逆にスケールのある豪快でしなやかな殺陣になるのかもしれない。


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