関の弥太っぺ

1995/11/26 大井武蔵野館
長谷川伸のストーリーラインを生かしながら映画的に潤色。
年月に揉まれて変わり果てた主人公の壮絶さ。by K. Hattori



 幼い頃に生き別れになった妹を探しているという弥太郎は、賭場で目の出たときにコツコツ蓄えた小判50両を胴巻きの中にしまい込んでいる。このあたりの行動は、母と再会するときのために100両肌身はなさず持っている『瞼の母』の忠太郎とそっくり。同じ長谷川伸の原作、主演も『瞼の母』と同じ錦之助とは言え、両作品の連続性を妄想せずにはいられない。もっとも『瞼の母』の忠太郎は最後の最後まで100両の金を持ち続けるが、『関の弥太ッぺ』の主人公は道中で出会った親を亡くした少女のためになけなしの金を使ってしまう。この少女と手放した金が、10年後に事件を巻き起こすのだが、弥太郎はそんなことは考えもしない。

 『瞼の母』は母との再会が物語のクライマックスだったが、『関の弥太ッぺ』は物語の前半に妹の消息を知る弥太郎の姿を持ってきたことで、その後の展開が変わってくる。『瞼の母』で番場の忠太郎は母と再会することを果たすけれど、もし願いかなわず母親と巡り会えなかったら、彼も弥太郎のようになっていたかもしれません。この映画はなんだか、『瞼の母』の後日談のようにも思えます。

 錦之助演ずる弥太郎が、前半と後半でがらりと雰囲気を変えてしまうところがすごい。若くてツヤツヤしていた売り出し中の渡世人が、妹の死を知ったことで自暴自棄になったのか、喧嘩出入りに金で雇われる凄腕の殺し屋になっている。黒く日焼けした顔に、髪もぼうぼう。これを錦之助が演じているから、まるで子連れ狼の拝一刀といった風体なのだ。『瞼の母』の番場の忠太郎が拝一刀に至るまでには、さぞや大変な苦労があったことでしょう。

 この物語は中身にいろんな要素が詰まっていて、泣かせどころも何カ所か用意されているんだけど、残念ながら僕はこの映画では素直に感動できなかった。泣かせるツボをなんだか少しずつはずしているような間の抜けた演出。全体が平板でドラマ起伏に欠ける。脚本はがっちりと組上がっていて構成上も難がないのに、俳優たちがその上で動き始めると精彩がないのはなぜだろう。娘役の十朱幸代は初々しかったけど、残念ながら少女時代の子役の方が存在感があってよい。十朱のぼんやりとした印象が、後半の緊張感を台無しにしているのだ。なぜ木村功演ずるやくざが十朱幸代に夢中になるんだか、画面の上では説得力がまるでない。二人が初めて顔を合わせる場面では、観客が息をのむほど十朱のクローズアップをきれいに撮ってくれなくては困る。

 などと文句を垂れながらも、最後の錦之助と十朱のやり取りの場面はかなり胸に迫る。「辛いことがあったらなぁ、忘れるこった」という弥太郎の台詞が、物語の前半と後半でこんなに違った意味を持つとは怖いほどだ。


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