RAMPO
-INTERNATIONAL VERSION-

1995/06/03 丸の内ピカデリー2
「ここまで来たら全バージョン制覇をせずばなるまい!」
ただそれだけの意図で観た映画。by K. Hattori



 音楽を録音し直しても、編集に多少手を入れても、さして面白くもない映画が特別面白い映画に生まれ変わるわけではない。インターナショナル・バージョンとして生まれ変わった『RAMPO』は、以前のドメスティック・バージョンとうりふたつである。例によって、特別面白いわけではない。さして面白くもない映画を、都合3回も観ればたいがいの人間は退屈する。僕も大いに退屈した。

 上映時間中、合計4回の大あくびの合間に観たこの映画に、新たに発見するべき点はほとんどない。以前のバージョン(もちろん奥山版のこと)で張り巡らされ、売り物にされた仕掛けの部分は影を潜め、比較的オーソドックスな映画になっているかもしれない。映画前半の映画会社主催のパーティーシーンなど、ずいぶんとスッキリした。これは前回の公開時には鳴り物入りで宣伝された場面なのだが、有名人多数出演という、本編に無関係な演出が全体のバランスをぶち壊しにしていたのも事実だ。この点では、新版の方がはるかに優れている。おそらくはサブリミナル効果や劇場内に匂いをふりまくなどの仕掛けも今回は控えたのだろう。こうして余分な贅肉がとれた分、現実と虚構との間を行き来し、虚構が現実を呼び寄せるといった本来の物語の枠組みが、力強く浮かび上がっている。つまり、わかりやすい映画になったということだろう。冒頭のアニメーションも新しくなっているが、これもまた、映画のテーマをより鮮明にすることに貢献している。

 しかし、何度も繰り返すが、僕はこの映画を観るのがこれで3度目である。確かに少しづつ細部が異なるが、しょせんは大同小異。本質的な部分は何も変わっていない。この映画がわかりやすくなったからといって、それがどうしたというのだ。表面を少しいじったところで、中身は変わらない。意外な発見などない。見落としていた重要なメッセージもない。脚本にはひねりがなく、最初から最後まで一本調子であるということが、映画がわかりやすくなったことで、よりあからさまになっただけである。こうして退屈な映画は、より退屈さの度合いを増す。

 見るべきところは芝居しかないのだが、何度も見ることで、逆に俳優たちの芝居の質の意外な高さに気がついたりもする。特に乱歩役、竹中直人のじつに繊細な芝居などは注目に値する。動きの少ない地味な役だが、竹中はその存在感ある演技で、取り留めのないエピソードの集積を、なんとか物語という体裁につなぎ止めている。彼の演技の中心は、ほとんどがその表情だけなのだ。竹中直人おそるべし。根津権現から女を見送るときの、彼の微細な表情の変化を見よ。戸惑いに近い表情が、そのまま無階調に歓喜の表情に移り変わって行くのだが、これはもう名人である。


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