RAMPO
(奥山監督版)

1994/07/08
黛監督の演出に激怒した奥山和由プロデューサーが自ら撮り直した
サブリミナル効果が話題になったが効果は疑問。by K. Hattori


 結局のところ、奥山和由プロデューサーは何が気にくわなくて黛版の『RAMPO』を没にしたのかわからなかった。黛版に比べてわかりやすくもないし、特に面白くもない。むしろ黛版の方が雑音のない分、シンプルな映画になっていた。奥山版はちょっと猥雑すぎる。ディテールが自己主張しすぎですね。

 2本の映画を比べると、奥山プロデューサーが何を意図してこの映画を作ったのかが良くわかるんですね。要するに彼が作りたかったのは、現代版ののぞきからくり、あるいは見せ物小屋でしょう。パーティーシーンのゲスト連中もそうだし、意味深なサブリミナル効果とやらもそう。徹底したこけおどし。様々な素材の数々が、がらくたとも宝石ともつかないままドカドカと闇鍋風にひとつのワクの中に強引に突っ込んである。でもそれらは全て未整理、未消化なまま。原型がひとつひとつわかってしまう。

 映画披露パーティー会場になっている横浜のホテルは『シャイニング』のオーバールック・ホテルを連想させるし、そこに現れる加藤雅也や、その後の物語に延々登場し続ける黒装束の少女の幻影も『シャイニング』からの引用。テーマ曲に「オール・オブ・ミー」を持ってくるあたり、オルゴールでそれが繰り返し演奏されるあたりは、『ジェイコブズ・ラダー』で使われた「サニーボーイ」のバリエーション。最後は『バーチャル・ウォーズ』か『タイム・ボンバー』的な映像を見せる。他にもきっといろんな映画からの引用やパクリに満ちているはずです。オリジナルがないのね。

 黛版を観ているせいか、粗いカットのつなぎが目に付きました。黛版では前後にきちんと芝居をしている部分で、その芝居の部分を切り飛ばして乱暴にカットをつなぐ場面が目立ちます。また、登場人物のエピソードや細かな描写も大幅に省略され、これだけ観ている人に意味が通じるとは思えません。例えば、黒い服の少女が何者なのか、奥山版だけ観ている人にすぐわかりますか?

 奥山監督が付け足したことによって、魅力が増した部分も当然ある。それはオープニング。古い記録映画のフィルムを継ぎ合わせて、乱歩時代の東京の風景を映画にオーバーラップさせるのは、常套手段だけどわかりやすくてよい。映画の素材となった小説をいきなりアニメで見せてしまうのにも度肝を抜かれたけれど、これはかえって映画の奥行きを限定してしまったかもしれない。横浜を歩く乱歩と横溝の背後に軍艦が見えるのはよい。でも、パーティーシーン以降は概してだれる。

 無駄も多い。平幹二郎が羽田美智子をいじめるシーンで私製のブルーフィルムを使うのだが、このすぐ後の邸内パーティーシーンで詩の朗読にあわせてフィルムを上映する。これではフィルム上映というネタがふたつ続いて、印象が薄くなる。このシーンは映画中でひとつの山場なだけに、このふやけた演出には失望した。前のシーンでフィルムを使うのなら、パーティーシーンは別の何か(例えば怪しげなダンスとか)に替えるべきだった。

 結局のところ、鳴り物入りで登場した奥山『RAMPO』は黛版に比べて特別素晴らしい映画とは言えず、こうなると奥山氏が黛版のどこに激怒したのかがまったくわからない。プロデューサーがより面白い映画を観客に提供しなければならないのだとしたら、ひょっとして奥山版は観客にお金を取って観せるものではないかもしれない。僕には黛版で充分でした。

 (ただし、話題性では奥山版よ!)


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