ラストソング

1994/03/29
傑作になりそうな素材を上ずった演出がクサイ青春ドラマにした。
本木雅弘の芝居は素晴らしいがそれを誰も受け止めない。by K. Hattori



 制作した側の意図は痛いほどわかる気がするが、でき上がった作品は甘ったるくセンチメンタルな青春ドラマになっている。感動的なシーンがいくつかなかったわけではないが、映画のベタベタとしたトーンがその感動にいささか水を差し、時には台なしにしてしまう。

 脚本も読んだが、映画の欠点はそのまま脚本にもその萌芽がある。しかし、その欠点を育み花開かせてしまったのは演出であり、脚本だけを責めるわけにもいくまい。物語はありふれた「男ふたりと女ひとりの友情物語」だが、シュウとカズヤの男ふたりに比べると、安田成美演じるリコはいかにも弱い。そもそも存在する理由すら希薄である。お嬢さん育ちのリコが地方ラジオ局のアナウンサーという職を投げうって本木演ずるシュウちゃんについて行ったのは、本木が持つ悪魔的なカリスマ性にひかれたのだと僕は理解した。カズヤがシュウと共に東京に出て行くことを決意するのも同じ理由だろう。しかし、東京に出た後のリコはいったい何をしているのか。バンドのメンバーですらない彼女に、居場所があるようには思えないのだが……。

 物語は後半、音楽と友情、夢との間で引き裂かれて行くシュウとカズヤを浮き彫りにしていくが、この時、リコの居場所はまったくなくなっている。そもそも、リコのどこにシュウとカズヤが惚れるのかも説明不足。カズヤに言わせればリコはシュウより「頭のいい女」なのだそうだが、画面に現われる安田成美はしょうゆの広告のおのろけ主婦そのままの脳天気さで、とても「頭のいい女」には見えないのだ。まぁ、美人であることは比定しないけどね。彼女のつぶやくようなナレーションが、物語をことさら深刻そうにみせるのだが、物語はそんなに小難しいものでもないはず。リコの物憂げなモノローグは、このドラマに不要だったのではないだろうか。リコはどう考えたって、この物語の主役ではない。リコという人物の設定が不明確である点が、この物語の最大の欠点だったと僕は思う。

 脚本の話はこの程度にして、以下は演出に限定して話を進めることにする。

 物語は博多のライブハウスから始まる。しかし、この時画面にかぶさるBGMはジャズである。この選曲に、そもそも僕は違和感を覚える。ロック・バンドの話なんだぜ。なんでジャズなの? この映画はオペラ「ボエーム」のアリアや唱歌「浜辺の唄」などが印象的に挿入されて、それぞれに効果を上げているのだが、このジャズだけはいただけなかった。このオープニングに限らず、この映画は一種の音楽映画であるにもかかわらず、ひどく音楽の使用に対して無頓着だと思う。オープニングのジャズ以上に僕を興醒めさせたのは、シュウがカズヤをメンバーに入れるため、前からいたケンボーというギタリストを追い出す場面。ここは物語前半の山場のひとつだが、このシーンに差し掛かったとたんに、センチメンタルで泣けと言わんばかりのBGMが物欲しそうに流れはじめる。これにはゲンナリした。観客の感動をBGMが先取りしてしまうのだ。なんたる愚かさ。このシーンはこんなBGMに頼ならなくても、十分に力強い演出ができるはずではないか。また、ここで見せるのはバンドを去って行くケンボーの悲哀ではない。時にはひどく冷酷な一面をかいま見せる、シュウという男の、または音楽というものの残酷さなのだ。このシーンが十分に描き切れないと、後々シュウ自身が主役の座を奪われ、さらにはカズヤのもとからも追われるという皮肉さが生きてこないのではないか。映画の後半では本木の熱演がひかるが、それでもドラマがいまひとつ盛り上がりに欠け、どこかちぐはぐな印象を与える原因の一つは、実はこんなところにあるのかもしれない。

 まぁ、このBGMの一件に限らず、この映画の演出は悪い意味でテレビっぽいのだ。一言で言ってしまえば、大雑把というところか。その場しのぎで説得力のないコケオドシばかりで、シーンの前後がかみ合わないような気がする。ライブハウスがはねた後の二次会シーンも、シュウのバンドの他のメンバーを簡潔に紹介してゆく重要な場面だが、映画はリコを口説くシュウとふたりをはやし立てる若者たちのどんちゃん騒ぎにスポットが当り、残念ながらメンバーたちの印象は薄くなってしまった。一匹狼をきどるシュウという男は、そのじつ姑息で小心な一面をもつ男でもあり、そんな彼の小心さがリコというお嬢さん育ちの女に対する攻撃性になって現われるのだろう。しかし、それは画面からは見えてこない。また、リコにしたところで、自分の育ちの良さに対する一種のコンプレックスがあるからこそ、粗暴にふるまうシュウにひかれて行くのだろう。しかし、それもまた画面からは見えてこないのだ。シュウとリコが初めて直接言葉を交す重要な場面であるにもかかわらず、この場面は少しも魅力的でないのだ。

 コケオドシの極みは、シュウに裏切られたカズヤが、かつてバンドの下宿兼練習場だった隅田川沿いの倉庫に戻ってくるシーン。リコが倉庫に入って行くと、あたり一面にロウソクの炎が輝き、幻想的な光景が広がっている。僕はこのロウソクを一本一本灯して歩くカズヤを想像して、思わず苦笑してしまった。あれだけのロウソクに点火するには、さぞや時間がかかったであろう。(その割には、ロウソクがみんなたった今点火したばかりのように長いんだよね。)リコに説得されたカズヤは、意を決してコンサートの会場に向かうのだが、その時はやっぱりひとりで一本ずつロウソクを吹き消したのだろうか。そんな想像が、さらに僕の苦笑を深くさせた。あのシーンはもう少し別の演出をするべきだと思う。あそこで派手な炎を見せてしまうと、その前の、ブランデーの炎の印象が薄くなるし、ロウソクを使うなら使うで、小道具としてもう少し芝居に参加させてほしかった。黒澤明を引き合いに出すのもむなしいが『白痴』のラストシーンがやはりロウソクを効果的に使い、恐ろしいぐらいに美しく幻想的なシーンを演出していたことを思い出す。あの場面のロウソクには必然を感じたが、この映画にそれはない。

 そうそう。地面にばらまかれたブランデーが青い炎を上げて燃えるシーンは脚本にも書かれているのだが、映画の中のそれは火がつくまでの芝居がほとんどなく、地面が突然燃え上がったような印象を受けた。ここはカズヤがシュウと精神的に決別する重要なキーになる場面だし、地面を走る青白い炎はふたりの間の溝を象徴しているはず。もっと丁寧に見せてほしかった場面のひとつだ。

 文句を言いはじめればキリがない。シューレス・フォー(シュウのバンド)が地方をどさ回りに旅する場面だって、なんで田圃のあぜ道を歩かなければならないのか、なんで海岸でフラメンコ踊らなきゃならないのか意味不明。「地方=田舎=田圃=あぜ道」という単純な図式かもしれないが、これは地方のひなびた駅前商店街で、駅前食堂のうどんをすすってるシーンでも代替できるわけでしょ? それとも、あのシーンに意味があるのかなぁ。別にきれいなシーンでもないしなぁ。

 しかし、感動的な場面がないわけではない。もっともこれはひとえに脚本の力に依るところが多いと思うのだが、いくつか例をあげる。まず、シュウがカズヤを口説きに夜の操車場を訪ねるシーン。「そのカンテラ、これから俺が持ってやるよ。その光で、俺がお前の道を照らしてやるから。な?」と叫ぶシュウの姿は、映画の前半でもっとも美しかったシーンのひとつ。僕はここで涙が出そうになった。この場面ひとつで、カズヤがシュウにくっついていく気持ちが理解できたような気がしたのだ。また、プロデューサーに引導を渡されたシュウが、カズヤとリコを連れてドライブに行く場面で、泣きじゃくるカズヤにシュウがうめくように「泣けたんだ……お前の歌に」とつぶやくシーン。そして圧巻はラスト。コンサート会場の廊下で、カズヤとシュウの最後の会話から、ドラマは一気に盛り上がる。この高揚感は素晴しかった。

 このあと延々シュウの台詞は続くのだが、これには泣けた。今これを書きながら、目頭押さえてます、僕。映画『ラストソング』屈指の名場面であることは、まず間違いない。このラストシーンのためだけに、この映画があるようなものでした。

台詞は全て扶桑社刊「ラストソング/シナリオフォトストーリー」による。



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