アンチクライスト

2010/12/17 京橋テアトル試写室
子供を失った夫婦が山小屋に作り出したもうひとつの地獄。
ラース・フォン・トリアー監督作。by K. Hattori

Antichrist  マンションからの転落事故で幼い息子を亡くした夫婦。ショックで虚脱状態になった妻を救おうと、セラピストをしている夫は妻を人里離れた山荘に誘う。そこで始まるふたりきりの集中セラピー。だが夫婦であるふたりは、本来なら患者とセラピストの間に禁じられている性的関係の深みに迷い込んで行く。徐々に崩壊して行く秩序。その崩壊は夫婦関係を破壊し、人間性を破壊し、ふたりの関係を暴力と混沌が支配して行くようになる……。

 新作を発表するたびに物議を醸す、ラース・フォン・トリアー監督の新作。感動が「心を動かされること」を意味するとすれば、この映画は間違いなく大いに感動的だ。だが「心を動かされること」が心地よくて温かい気持ちになることとは限らない。映画の世界にはネガティブな感動もある。人をたまらなく不安にさせ、不快な気分にさせ、最後に荒涼とした寒々しい印象を残すような作品も、一般的な「感動作」とは正反対のベクトルで感動的な作品と言えるのではないだろうか。トリアー監督はこれまでも、そんな作品を作ってきた。しかし今回の映画ほど、荒廃の度合いが激しい作品もないように思える。過去の作品で映画的演出の中に隠されてきた身体的暴力の数々が、この映画では生々しい形で噴出している。

 しかしその暴力を描く映像は、どこまでも美しい。映画の冒頭で、マンションの窓から転落して街路にたたきつけられるよちよち歩きの赤ん坊の姿の美しさ。幼い子供の死という残酷で醜悪で暴力的な出来事と、繊細な砂糖細工のように甘美な映像美がここで結びつく。しかし映画を観ている者はやがて気づくのだ。映画冒頭のこのシーンは、物語全体の中の中間地点に過ぎなかったことに。子供の死は、暗室の中に開いた小さな穴(ピンホール)のようなもの。それ以前に存在した明るい世界はこの穴を通って、暗室の中の壁面に反対向きの像として投影される。子供の死以前にあった安らぎと幸福は、子供の死をきっかけにして失われてしまう。暗闇に投影されるのは、際限のない不安と底なしの絶望。慎み深い愛情は消え去り、憎悪と嫉妬が残る。だがその姿は、正反対ではあるが穴の向こう側にある世界にそっくりだ。やがて男は気づいてしまう。暗闇の中に初めて出現したと思われた妻の魔性が、じつはずっと前から存在していたものだということに……。

 出品されたカンヌ映画祭でごうごうたる非難を浴びたこの映画だが、主演のシャルロット・ゲンズブールは主演女優賞を受賞。子供の死で虚脱状態になった母親から、全身が殺意と暴力のかたまりにでもなったような激しい絶叫まで、振幅の大きな激しい演技を見せる。ウィレム・デフォーは完全にその受けに回っていて気の毒なのだが、これはこれで感情を抑制することに長けた男の姿としてリアリティがある。男なら誰もが持つ、女性嫌悪と女性恐怖の寓話。男性は共感し、女性は嫌悪するかも。

(原題:Antichrist)

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2011年2月26日公開予定 新宿武蔵野間、シアターN渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか
配給:キングレコード
2009年|1時間44分|デンマーク、ドイツ、フランス、スウェーデン、イタリア、ポーランド|カラー、モノクロ|シネマスコープ|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.antichrist.jp/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:アンチクライスト
関連DVD:ラース・フォン・トリアー監督
関連DVD:ウィレム・デフォー
関連DVD:シャルロット・ゲンズブール
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