僕らはあの空の下で

2009/07/08 映画美学校第1試写室
卒業直前の高校生が1年間の出来事を回想する話。
手抜きをしては面白い映画はできない。by K. Hattori

Bokura  卒業式を明日に控え、閑散とした高校の校舎。引っ越しのためこの日の夕方には日本を飛び立つ飛行機に乗らねばならない沢田修は、1日早く卒業証書を受け取るため学校を訪れた。転校生として3年生の春からこの学校にやってきた修にとって、わずか1年とはいえ思い出のたくさん詰まった校舎だ。その校舎で喜びや悲しみを分かち合ったのは、親友の生徒会長・神崎浩紀。しかし学校に彼の姿はない。少し前に気持ちのすれ違いから、何となく気まずい関係になってしまったふたり。彼らはこの最後の日に、再び顔を合わせて仲直りすることができるのだろうか?

 わずか1時間ちょっとの上映時間だが、そのわりには中身がスカスカに感じられてしまう。物語の軸足を「卒業式前日の学校」に置いて、そこから過去1年間の出来事を回想していく形式なのだが、軸足が学校の中なら、回想シーンの行方も学校の中にほぼ限定されているため、どこをどう見ても絵柄に変化がない。映画なんてものは室内の次は屋外、昼間の次は夕方や夜のシーンを出して組み合わせていくことで、時間と空間の広がりを表現していくものだ。ところがこの映画は場所をが校内に限定させ、しかも昼間のシーンばかりが延々続くのだから、多少の季節感など出したところで目先の変化がないのだ。

 そもそも時間の流れを表現するにせよ、ドラマに必須の葛藤を生み出すにせよ、高校3年生の1年間ならもっと描ける素材は山のようにあるはずではないか。言うまでもなく高3は受験シーズンも本番だ。同級生たちが次々に進学していく中で、主人公の浩紀だけは「大学に行かずにマンガ家になる!」と宣言している。今どき進学しようとすれば、専門学校だろうが大学だろうがどこにでも入れる時代だ。そこであえて「進学しない!」という決意を貫き通すには、周囲とかなり戦わなきゃならない。友人たちは彼の決意をどう考え、どう評価しているのか。教師はどんな進路指導をしているのか。親はどう考えているのか。そうしたことをひとつずつ考えるだけで、ドラマを生み出すネタは無限にわき出てくる。でも映画の中ではそれを完全に無視だ。

 浩紀が生徒会長だという設定も、修がアメリカ在住だったという設定も、映画の中ではほとんど何も生かされていない。こうしたキャラクターの設定からストーリーを掘り出してくる努力が、この映画の中ではまったく為されていないのは疑問だ。なぜもっと欲張らないのだろうか。「卒業式前日の学校」という軸足にしたって、学校の中なら生徒会室と屋上以外にもっといろいろな場所があるはずだ。職員室、図書室、理科室、音楽室、体育館、プールなどなど。なぜそうした場所に、人物を移動させないのだろうか。姿を消した浩紀を捜すという動機はあるのだから、学校内ならどこでも移動できる必然があるはずなのに。もちろんこれは、学校外でのロケについても同じこと。この映画は本来、もっと面白くなるはずなのだ!

8月22日公開予定 渋谷シアターTSUTAYA
配給:日本出版販売 宣伝:フリーマン・オフィス
2009年|1時間8分|日本|カラー|ヴィスタサイズ
関連ホームページ:http://www.bokusora.com/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
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