カレン・ジョイ・ファウラーの同名小説を映画化した作品で、劇中に登場する「読書会」というのは数人のメンバーで月に1度ぐらいのペースで同じ本を読み、食事やお茶を楽しみながらその感想を語り合うという集まりのこと。カルチャーセンターの文学講座のように、専門の講師がいて生徒が話を聞くというものではなく、参加者全員が相互に感想や意見を述べ合い、互いの意見を批評し合うという横並びの関係。文学談義だけが目的でもなく、それぞれの家に手料理を持ち寄ったり、時には屋外でのバーベキューを楽しむなど、飲み食いやおしゃべりにも大きな重点が置かれている。要するにこれは、少し知的な味付けがしてあるおしゃべりサークルなのだ。
物語の中では年齢もタイプも違う数人の女性グループが「高慢と偏見」で有名なジェイン・オースティンの作品を読む読書会を作り、そこに若い男性がひとり加わるという設定。オースティンの長編作品は6作なので、メンバーも全部で6名。それぞれが抱える悩みや問題が、読書会を媒介にして発展したり解消したりするという群像劇だ。基本的にこれは「ジェイン・オースティンを読んでる人たちの話」なので、映画を見るに当たってオースティンの小説を多少は読んでおかないとイカンのではないか?という不安を持つ人も多いと思う。しかしそんな心配は、少なくともこの映画に関しては不要だと思う。
結局この映画が描いているのは、「物語の力への信頼」なのだ。人はなぜフィクション(作り話)だと知りつつ物語に引き込まれ、そこに感情移入し、本気で怒ったり悲しんだり、場合によってはその中に自分自身の人生を重ね合わせてしまうようなことまでするのか? 人は虚構の物語によって、自分自身の人生を変えてしまうことがある。人は虚構の物語を通して、大きな慰めや癒しを得ることがある。そんな物語の力をこの映画は信頼し、その力の中に登場人物たちをゆだねている。
ジェイン・オースティンを読んだことがなくても、小説やマンガなどに書かれた「物語」を夢中になって読んだことのある人なら、この映画が描いているものがわかるはずなのだ。「あまり小説は読まないから」という人だって、映画やテレビドラマは見るだろう。そこにあるのもやはり「物語」だ。この映画ももちろん同じ。お話は嘘八百を並べた作り事で、劇中に登場するエピソードはすべて、プロの俳優が演じるお芝居に過ぎない。しかしそれでも、人はその嘘八百の作り話に引き込まれてしまう。映画の中に、自分自身や隣人たちの姿を投影してしまうのだ。
映画の冒頭で日常の中にあるさまざまな場面を、連続した軽いスケッチとして描いていくところが僕のお気に入り。ちょっとした失敗、ヘマ、運の悪さ、いら立ちなど、観ていてつい「あるある、こんなこと!」と思わされてしまうのだ。この時点で、僕は既に物語に引き込まれている。
(原題:The Jane Austen Book Club)