リトル・チルドレン

2007/06/26 CINEMART銀座試写室
穏やかな日常の中にポッカリと開いた落とし穴。
愚かで悲しい人間たちのドラマ。by K. Hattori

 世の中の映画はふたつの系統に分けられる。ひとつは観客の多くが決して経験することのないであろう特異な事件や奇抜な舞台設定を作り出して、そこで起きる突拍子もない出来事を描くもの。犯罪ドラマ、SFやファンタジー、アクション映画のほとんどはこれだ。もうひとつは観客のごく身近にある世界を取り上げて、日常の中にある小さなドラマをクローズアップしていくもの。非日常性の中にのみドラマがあるわけではない。むしろ日常の中にあるドラマこそが、観客に大きな感動を与えることもある。

 『リトル・チルドレン』は後者の日常のドラマに属するものだ。もちろん個々の登場人物たちが抱えている事情は個別のものであって、誰もが同じ立場であるというわけではない。だが「退屈な日常から逃避するための恋愛(不倫)」というテーマは、現代社会に暮らす多くの人にとって身近なものだと思う。。

 物語はフロベールの「ボヴァリー夫人」を下敷きにしているようで、劇中にはヒロインが読書会で本の感想を述べるという場面も用意されている。ボヴァリー夫人は退屈な日常から逃避するため不倫に走り、最後は自殺してしまう女性だ。ヒロインはそんな小説の主人公を愚かだと考える一方で、その心情は大いに理解できると共感を示す。ヒロインのサラ・ピアースは、紛れもなく現代のボヴァリー夫人なのだ。。

 しかし『リトル・チルドレン』の辛辣さは、愚かなのは女だけじゃなく、男もまったく同じだと言っていることだろう。むしろロマンチックな幻想に耽溺して日常から逃れようとする傾向は、男の方が強いのかもしれない。サラと不倫するブラッドにとって、恋愛は真夜中のフットボールやスケートボードと同じ程度の意味しか持っていない。ブラッドの友人ラリーは、崩壊してしまった自分の生活と向き合うことができないまま、刑務所から出てきた男の排除運動にのめり込み、最後はまた別の幻想の中に逃避していくように見える。  人間の暮らしは、永遠に終わることのない「ゴッコ遊び」なのだ。ゴッコ遊びの中で、人は何にでもなることが出来る。勇敢な警官にもなれれば、優秀な弁護士にも、文学をたしなむ良妻賢母にも、社会正義の実現に尽力するジャーナリストにもなれる。人々はゴッコ遊びの役割を演じながら日常を送り、いつしかそれが自分自身の本当の顔だと信じ込むようになる。この映画の主人公たちは、自分たちがまったくそんなタイプではないことを十分に知りつつ、「恋のためにすべてを投げ出すロマンチックな人間」を演じてその役柄にはまり込んでしまう。。

 この映画が描こうとしているのは、ゴッコ遊びの悲劇なのだ。ジャッキー・アール・ヘイリー扮する元性犯罪者の悲劇は、彼が相手の同意なしに、突然ゴッコ遊びを始めてしまうことにある。ゴッコ遊びはいつか終わる。だがゴッコ遊びをやめても、そこにはさらに別のゴッコ遊びが待っているだけなのかもしれない。

(原題:Little Children)

7月28日公開予定 Bunkamuraル・シネマ、シャンテシネ
配給:ムービーアイ
2006年|2時間17分|アメリカ|カラー|スコープサイズ|ドルビーデジタル、SDDS、dts
関連ホームページ:http://www.little-children.net/
DVD:リトル・チルドレン
DVD (Amazon.com):Little Children
サントラCD:Little Children
英文シナリオ:Little Children: The Shooting Script
原作洋書:Little Children (Tom Perrotta)
関連DVD:トッド・フィールド監督
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