沈黙の傭兵

2006/10/24 Togen虎ノ門試写室
裏切られ仲間を失った傭兵がその遺言を守るため戦う。
主演はもちろんスティーブン・セガール。by K. Hattori

 映画のタイトルに、主演俳優の名前が入るケースがある。例えばチャップリンの映画は、短編時代のほとんどの作品と長編の一部は、タイトルに『チャップリンの〜』と付く。日本で言えばエノケンや美空ひばりもこのタイプだ。しかし現在、映画界でそれと似たようなことをしている俳優がいる。それはスティーブン・セガール。ただし彼の場合、タイトルには名前がそのまま入るわけではなく、『沈黙』という変名が表記される。『沈黙』こそ映画興行界におけるセガールの別名。『沈黙の戦艦』『沈黙の要塞』から始まる『沈黙』シリーズは、すべて『スティーブン・セガールの戦艦』『スティーブン・セガールの要塞』と言い換えてもいいのだ。今回の映画はもちろん、『スティーブン・セガールの傭兵』である。

 仲介人のチャベルに裏切られ、長年共に戦ってきた親友ラジオを失った凄腕の傭兵ジョン・シーガー。ラジオの遺言で彼の家族を守ろうとするシーガーだったが、チャベルはラジオの家族を人質にして、再びシーガーを困難な任務に送り出す。それは南アフリカの刑務所から、ひとりの囚人を脱獄させることだった。シーガーは止むなく南アフリカに渡る。だが優秀な男には敵が多い。シーガーを煙たく思うCIAのドレシャムは、シーガー抹殺のため女性スパイを送り込む。それはシーガーの元恋人で、傭兵仲間でもあるマキシーン。だがドレシャムの意図を察知したシーガーは、自分の計画をあえてマキシーンに伝えるのだった……。

 映画としてはかなりバランスの悪い作品だ。導入部はドレシャムとチャベルの密談シーンから始まるのだが、そこにいきなり「汚職CIA」とか「フィクサー」などの字幕が挿入される。そういうことは、台詞やその後の芝居で観客にわからせるものなんじゃないの? その後はこのふたりの会話と写真で、登場人物をあらかた紹介してしまうのだ。登場人物はそれぞれの登場シーンで、その人物の特徴的なエピソードをからめながら紹介していくものなのだが、この映画はそうした脚本の段取りをまったく無視してしまう。

 映画導入部の説明に続いて、主人公たち傭兵が戦う戦場の描写が延々続く。前後関係まったくなしに、突如始まる戦場の風景。意味は取りにくいが、これはこれで迫力がある。問題は映画がこの後、これに匹敵する見せ場を用意していないことだろう。映画は進行に合わせて、徐々に緊迫感を増し、クライマックスのカタルシスで幕を閉じるのが常だ。しかしこの映画では、序盤にアクションのクライマックスがあって、あとは少しずつアクションが小粒になる。

 もともと太っていたセガールはますます貫祿が出て、戦場を駆け回る現役の傭兵にはまったく見えない。銃を撃つときものっそり立ち上がって、パパパッと撃つと、またのっそりと身を伏せる。でも格闘シーンは迫力ありだ。全体にひどくアンバランスな映画。しかしそれがセガールの映画なのだろう。

(原題:Mercenary for Justice)

11月25日公開予定 銀座シネパトス
配給:アートポート 宣伝:アンカープロモーション
2005年|1時間36分|アメリカ|カラー|ヴィスタサイズ|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.chinmoku.jp/
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