紀子の食卓

2006/07/06 TCC試写室
サイコ・ミステリー映画『自殺サークル』の続編。
今回は戦慄のホームドラマだ!by K. Hattori

 2002年に製作された映画『自殺サークル』の続編。しかし物語が直接つながっているわけではないので、『自殺サークル』を観ていなくても『紀子の食卓』は理解できると思う。新宿駅で起きた女子高生の集団自殺事件など、必要最小限の要素は『自殺サークル』から引用されている。これは『自殺サークル』と同じ世界で起きた、『自殺サークル』をめぐる別の物語だ。

 家出して東京に出てきた女子高生・島原紀子は、インターネットの掲示板「廃墟ドットコム」で知り合った上野駅54(ハンドルネーム)に助けを求める。彼女は時間単位で依頼人の家族を演じる「レンタル家族」というビジネスを営んでおり、そこではクミコと名乗っていた。紀子もミツコという名でこの“家族”の一員になる。一方、紀子の妹ユカは、「廃墟ドットコム」を入口に姉の足跡をたどり、そのあとを追うようにして自らも家出し東京に向かうのだが……。

 本物の「家族」に息苦しさを感じる人間が、虚構の「レンタル家族」の中に安らぎを求めるというのがこの映画のポイント。ここで問われているのは、「本当の私」とか「ありのままの私」というのもが、実際に存在するのかという問いかけだ。この映画に登場する「上野駅54」ことクミコは、本物の自分、本物の家族なんてものは存在せず、そう見えるように演じられた虚構だけがすべてという人間だ。しかし「虚構」は「嘘」ではない。彼女にとっては嘘っぽく見える「本当」や「本物」の方がよほど腹立たしく許容しがたいものであって、虚構には本物を以上に高い存在意義があるのだ。

 誰もが自分自身という役目を演じている。崩壊前の島原家も、両親のもとで「幸せな家族」という虚構を演じていた。しかし彼らはその虚構に自覚的ではなかった。子供たちは自分たちの役割に白けていたが、両親はすっかり自分たちの虚構が本物だと信じ込んでいた。そこに亀裂が生じて、家族は崩壊する。映画の最後に再築される島原家は、まったくの虚構だ。しかしその虚構の家族の方が、本物の家族よりずっとマシなのではないか。誰もが自分の役目を虚構だと知っている。虚構だからこそ、役割が変化すればすぐそれに対応できる。そこには本物の家族はない。本物の感情の交流も、本物の喜びも悲しみもない。しかし間違いなく、そこには「安らぎの空間」がある。虚構の中でこそ、人間は安心して息をすることができる場合があるのだ。

 参加者がそれぞれの「役割」を演じるサークルは、それだけで完全に閉じた自律的で完全な世界だ。閉じているからこそ、サークル(輪)なのだ。その中である役割を演じている限り、その人は幸福に生き、そして死ぬことができる。(新宿で自殺した女子高生たちのように。)だがその役割に甘んじることなく、“誰でもない自分”をそのまま生きようとする若者の姿が胸を打つ。現代の家族関係を辛辣に描き切った、紛れもない傑作だ。

9月公開予定 K's cinema
配給:アルゴ・ピクチャーズ
2005年|2時間38分|日本|カラー
関連ホームページ:http://www.noriko-movie.com/
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