胡同(フートン)のひまわり

2006/06/12 東芝エンタテインメント試写室
北京の裏路地に生きる人々の人情と風景の変遷。
文革から現代まで30余年の中国史。by K. Hattori

 胡同(フートン)と呼ばれる北京の下町を舞台に、30余年に家族の歴史を描くチャン・ヤン監督の最新作。主人公は1967年生まれで、父子2代に渡って画家になるという設定。これは1967年に北京の胡同で生まれ、父親も映画監督だったチャン監督にとって自伝的な内容の映画らしい。北京の胡同は中国の経済発展と都市再開発で年々数を減らしており、この映画ではスタジオの中にセットを組んで、在りし日の胡同の暮らしを再現しているという。

 物語は1967年に主人公シャンヤン(向陽)が誕生したところから始まり、ほぼ現代までを時系列にたどっていく。ただしクローズアップされているのは、1976年、1987年、1999年、さらにエピローグとしてその数年後が描かれる。物語の軸になっているのは、主人公と父の葛藤と対立。文化大革命で確たる理由のないまま農村に追放され、強制労働に従事していた父ガンニャン。過酷な労働と虐待で画家としての歩みを閉ざされてしまった彼は、まだ幼い息子に自分の夢を託す。しかし6年ぶりに帰宅した父の記憶を、シャンヤンは持っていない。この少年にとって父は、いきなり現れて自分から母を奪い、遊びを邪魔する厄介な赤の他人なのだ。このギクシャクした親子関係は、その後のふたりの関係を長く支配し続ける。

 主人公は息子のシャンヤンなのだが、この役は年代ごとに俳優が変わるため、むしろスン・ハイイン演じる父親や、ジョアン・チェン扮する母親の方が表に浮かび上がってくる。この映画の本当の主役はシャンヤンの両親、特に父親のガンニャンなのだ。

 ガンニャンは文化大革命を直接は非難しないが、この出来事が彼の性格をひどく複雑にしていることは間違いない。もともと頑固で融通のきかない彼の性格は、追放中の辛い暮らしの中でより強固に鍛えられてしまったのだ。自分を密告した隣人を恨み、何十年にも渡って口をきかないというのも、そうした極端な性格の現れだろう。自分で夢を諦めたのではなく、壁にぶつかって挫折したのでもない。歴史の波の中で、否応なしに夢を踏みにじられたという思いが、彼を依怙地にさせているのだ。

 親は最初から親らしい態度で、子供に接することができるわけではない。我が子が赤ん坊の頃は、親もまだ親としては生まれたての赤ん坊。それが子供の成長に合わせて、親も親らしく成長していく。しかしガンニャンは農場への追放で子供と離れたせいで、子供と共に親として成長していくチャンスを逃してしまった。ガンニャンがことさら子供に厳しくするのは、その空白を埋めようとする彼なりの焦りや戸惑いもあったのかもしれない。

 文化大革命がこの家族に深い傷を与えているのだが、文革や四人組を強く非難はしても、指導者である毛沢東は決して非難しないという中国人の心理が僕にはよくわからん。隣人を恨む前に毛沢東を恨むのが筋だと思うけれど、そうはならないのだな……。

(原題:向日葵 Sunflower)

7月公開予定 Bunkamuraル・シネマ
配給:東芝エンタテインメント 宣伝:樂舎
2005年|2時間9分|中国|カラー|ビスタ|SRD
関連ホームページ:http://himawari-movie.com/
ホームページ
ホームページへ