ピーター・ジャクソンの『キング・コング』は、じつによくできた悲劇だ。コングという高貴な野獣が、滅びるべくして滅びていく姿が人を感動させる。物語は基本的に1933年のオリジナル版と変わらない。しかしその悲劇性は、今回の映画の方がより増している。大きな違いはコングの「死」が、いつの段階で決定づけられたのかにある。1933年版のコングは、髑髏島で捕らえられ、ニューヨークに運ばれた時点でその生命を失ったと言っていい。エンパイアステートビルからの墜落は、その結果として現れた現象にすぎない。しかしピーター・ジャクソン監督は、コングの死をそれよりずっと前にさかのぼらせる。コングは髑髏島にいたときから、既に死んでいたのだ。
コングは髑髏島の王者だ。ジャングルを徘徊する肉食の巨大トカゲや恐竜たちも、コングの力の前にはまったく歯が立たない。かつて髑髏島にはコングと同じ地上最大の霊長類が数頭のグループで暮らし、偉大な王家として島のすべての生物の上に君臨していた。しかしその王朝は滅びようとしている。コングが暮らす山の上の宮殿には、かつてコングの仲間だったであろう巨大霊長類の亡骸が放置されている。コングはこうした巨大霊長類の、最後の生き残りなのだ。コングには既に共に暮らす家族もいなければ、一緒に感情を分かち合える仲間もいない。しかしコングはアン・ダロウと出会う。彼女はジャングルの支配者コングに原住民たちが用意した生贄でしかなかったが、コングは彼女と心を通わせることができた。彼女のしぐさに笑い、喜び、彼女と共に美しいものを観て感動を分け合った。アンはコングにとって唯一の仲間となった。彼女はコングにとって、たったひとりの友人であり家族だった。
『キング・コング』は愛の物語だが、それは男と女の恋愛や、性別や種族を超えた友情といった甘っちょろい話ではない。コングとアンはジャングルの奥で、互いの魂と魂が共鳴し、固く結びつくのを経験したに違いない。コングはアンのために命懸けで恐竜たちと戦い、アンもそんなコングの姿を見て彼に付き添うことを決める。背中を向けて歩いていくコングをアンが追う場面は、1933年版の『キング・コング』には絶対にあり得ない名場面だ。この瞬間に、コングとアンの間にあった種族の壁は取り払われる。しかしこの時点で既に、コングは死すべき運命のレールの上を歩んでいるのだ。
この映画は1933年版『キング・コング』のストーリーをなぞっているが、そこに描かれる男(コング)と女(アン)の関係はむしろ『スタア誕生』の男女関係に似ている。栄光の中を破滅に向かって歩む男と、彼と愛し合い、彼を破滅の淵から救おうとしつつも、結局は彼を救えず死なせてしまう女の悲劇。セントラルパークでコングとアンが戯れる夢のような場面や、エンパイアステートビル屋上から眺める朝日の美しさにはつい涙が出てしまう。
(原題:King Kong)