あおげば尊し

2005/12/07 メディアボックス試写室
死と向き合いにくい現代人の姿をサラリと描く。
テリー伊藤が映画初主演で好演。by K. Hattori

 小学校の教員をしている光一は、病院で末期ガンの治療をしていた父を自宅に引き取ることになった。余命3ヶ月。もう病院でできることはない。せめてその最後を、家族の見守る中で迎えようという配慮だ。同じ頃、光一の受け持っている5年生のクラスで、生徒のひとり田上が強く「死」に引き寄せられていた。彼は学校や自宅のパソコンで死体の写真を見たり、近くの斎場に忍び込んで死体を覗き込んだりしている。田上少年に「やめなさい」と強く言って聞かせる光一だが、なぜ子供が「死」に興味を持ってはいけないのか、なぜそんな少年の姿を大人たちが不気味に感じるのか、光一自身にもうまく説明できない。やがて光一はそんな田上少年に、ひとつの提案をするのだが……。

 市川準監督の最新作は、「現代人と死」そして「教育」についての物語だ。家族を介護しながらその死を看取る問題や、教育者は子供にどう接するべきかなど、劇中では様々な事柄が語られているが、最大のテーマとなっているのは、現代人が「死」をどう考えるかという問題だ。そのテーマを掘り下げる中で、「子供に命や死をどう教えるか」という具体的なエピソードが展開する。主人公の光一を演じるのはテリー伊藤。ちょっと意外なキャスティングだが、これが思いのほかいい感じだった。目の前で起きている出来事に戸惑いながらも誠実に向かい合おうとする主人公の姿が、テレビで時事問題などについて自分の言葉で語る彼の姿と重なり合って、寡黙な主人公のキャラクターを見た目以上に広げていると思う。

 最近は未成年者による殺人事件が起きたり、幼い子供たちが殺人事件の被害者になるケースも多い。そうした中で常に持ち出されるのが、「命の大切さ」や「命の尊厳」という使い古された言葉であり、その反対にあるのが命を無造作に扱う「心の闇」の問題だ。しかし「命」や「死」は、はたして言葉で教えられるものなのか。そもそも「命の大切さ」を子供たちに教えることを期待されている大人たちは、「命の大切さ」について本当に何かを知っているのか。この映画はそんな根本的な疑問を、観客の前にぶちまける。主人公の光一は、今まさに自分の父親が死のうとしている時になっても、まだ「死」というものがわからない。ベッドの上で少しずつ病み衰え、意識も混濁し、周囲への反応も鈍くなっていく父の姿を見守りながら、主人公は生と死について考え続ける。

 人間の死は生物としての生体活動の停止だけを意味しているわけではない。それは人間関係の問題であり、人間関係はしばしば物理的な時間と空間を越えた結びつきの中で成立しているものだ。人間は他者の「死」を自分自身の個別的な体験の中に位置づけて、それを受け入れ消化する。映画の中では主人公の父の死を、田上少年が自分自身の父の死と結びつけて受け入れる姿が感動を呼ぶことになる。「あおげば尊し」が流れるラストシーンも見事だ。

2006年1月公開予定 シネスイッチ銀座、K's cinemaほかにて公開
配給・宣伝:スローラーナー
2005年|1時間22分|日本|カラー|ヴィスタ
関連ホームページ:http://www.aogeba.com/
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