ローレライ

2005/04/01 シネマ8楽天地(シネマ4)
平成『ガメラ』の特撮監督が作った潜水艦映画。
特撮はともかくお話はまるでダメ。by K. Hattori

 昭和20年8月6日、原子爆弾の投下によって広島は壊滅的な被害を受けた。日本に対する2発目の原爆投下を阻止せよ! 浅倉大佐の密命を受けて、最新型の潜水艦〈伊507〉が日本を出航した。しかしこの潜水艦には、艦長の絹見少佐さえ知らされていない重大な秘密がふたつ隠されていた。ひとつは潜水艦の目となる〈Nシステム〉の存在。それはパウラという少女のテレパシー能力を利用する、精密な遠距離探査装置だ。伊507はこれを使ってまったく気づかれることなく敵に接近したり、敵の魚雷をかわしたりすることができた。だがこの潜水艦のもうひとつの目的は? それは日本で突然姿を消した、浅倉大佐の思い描く「終戦工作」と深い関わりを持っていた……。

 物語のアイデアは面白いと思う。CG技術を使った戦闘シーンはゲームのようだが、これ自体が映画の価値を減じるものでもないだろう。問題は脚本とキャスティングにある。福井晴敏の原作「終戦のローレライ」は文庫本で4冊になる長編だが、それを2時間強の映画向け脚本にしたのは『金融腐食列島[呪縛]』の鈴木智。これがあまりよくなかった。物語の重心がどこにあるのかわからないまま、話の焦点があっちこっちに飛び回る。

 こういう話は大きな魚を釣るのと同じだ。まずじっくりと腰を落ち着けて観客に話を飲み込ませておき、ガッチリと針がかかったところで勢いよくリールを巻き取ればいい。それなのにこの映画は、観客が餌をつつき始めるとすぐ仕掛けを引き上げて別のポイントに移動してしまう。移動先に観客が興味を示すと、また移動して別の仕掛けを放り込む。忙しいったらありゃしない。結局この映画は、観客の気持ちをつかみきれぬまま慌ただしく終わってしまった。映画の終盤になって突如として現れる語り手の元米兵は、この脚本の構成上の不合理を象徴しているように思う。

 キャスティングの問題点は妻夫木聡と香椎由宇だ。このふたりは映画の中で、大人たちが命懸けで守らねばならない「未来の日本」の象徴とされている。彼らは汚れを知らない、まったく無垢で幼い「子供」でなければならない。でも妻夫木と香椎は残念ながら「子供」には見えないし、映画の中でそのように演じているわけでもなかった。彼らはせいぜい「若者」だろう。思慮も分別も立派に持ち合わせた「若者」を、ずっと「子供」あつかいするのはなんだか白々しいし薄気味が悪いと思う。

 大人と子供の境界線にいる若者が戦闘の中で成長していく様子を、周囲の大人たちが暖かい目で見守る映画は多いはずだ。(例えば『七人の侍』とかね。)しかしこの映画は、「子供」が背伸びしながら「大人」に成長していくことすら許さない。「子供」は永久に大人たちの犠牲と庇護の下で生きることを強制される。こんな映画を嬉々として作っている人たちというのは、よっぽど精神と脳味噌がお子様仕様になっているのだろう。

3月5日公開 日劇2ほか全国東宝系
配給:東宝
2005年|2時間8分|日本|カラー|シネマスコープ
関連ホームページ:http://www.507.jp/
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