清風明月

2005/2/18 映画美学校第2試写室
韓国王朝時代を舞台にした友情と裏切りの剣戟メロドラマ。
物語のスケールが小さく感じられる。by K. Hattori

 17世紀の朝鮮半島。クーデターで王位を奪った新王の周辺で、重臣たちが次々刺客に襲われ無残な死を遂げる事件が起きた。王の身辺を警護する武官ギュヨプは、王の命を狙う刺客がかつて同じ武官養成所・清風名月で学んだ親友ジファンであることを知る。クーデターの混乱の中で、命を落としたとばかり思っていた男が生きていたのだ……。

 かつての親友同士が敵味方に分かれて戦うという話はわかりやすいが、この映画ではそのどちらもが「負け犬」だから、観ていてもどんよりと暗い気分になってくる。部下の命を守るため反乱軍の側につき、大義のために裏切りを潔しとしなかった恩師の命を奪い、親友と刃を交えることになったギュヨプは、王の親衛隊という重要な立場にいながら周囲の嘲笑を受ける身。九死に一生を得て落ち延び刺客となったジファンや、彼と行動を共にする恋人ションとて、復讐という後ろ向きの動機があるばかりで、その先にどんな正義があるわけでもない。この孤独なテロリストたちには、殺した重臣たちの死体をもてあそぶ程度の暗い情熱しかないのだ。

 この映画の中では、すべてが卑屈で暗い世界に閉じている。悪党もその場しのぎで身の保身を図る小悪党にしか見えず、その悪党を倒そうとする側もまた身を隠しながら生きているお尋ね者であり、自分たちの行動の先に何の展望も持っていない。どうもこの映画に出てくる人物たちは、やることがいちいち小さいのだ。それぞれが立身出世や復讐という、個人レベルの行動原理で動いているだけ。国家の危機を救うためとか、天下万民の安寧な生活のためという、大きな話が一度も出てこない。

 製作者側はこの映画を徹底したリアリズム志向で考えていたらしく、それはアクションシーンの凄惨な残酷描写などからも見て取れる。しかし「リアリズム」とは人間を小さく描くことなのだろうか。確かに我々は身近に大悪人を見ることは滅多にない。身近にいるのは小悪党ばかりだ。英雄豪傑や義侠の志士よりも、復讐に燃えるテロリストのほうが我々の日常には近かろう。しかしそれでは物語がふくらまない。せっかく時代劇という大きな夢が描けるステージを作りながら、その中でチマチマと人間がつばぜり合いをしているだけでは面白くないのだ。どうせなら、もっとでっかい物語を作ってほしい。

 ラストシーンに観客の見たいカタルシスを用意しないことも含めて、この映画があえて「小さな人間」を描こうとしていることは明らか。でも物語の大きさと、その中で動く人間の大きさとはまったく別問題だろう。スケールの大きなドラマの中で、人間の小ささを描くならそれでもいい。だがこの映画は人間のサイズに合わせて、物語そのものが小さく縮こまってしまった。登場人物の行動が理に落ちすぎて類型的になり、生身の人間らしい個性があまり見えてこないのもスケール不足の原因かもしれない。

(原題:清風明月 Sword in the Moon)

3月19日公開予定 シブヤ・シネマ・ソサエティ
配給:ファインフィルムズ 宣伝:アニープラネット、グアパ・グアポ
2003年|1時間39分|韓国|カラー|スコープサイズ
関連ホームページ:http://www.finefilms.co.jp/seifumeigetsu/
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