昨年末のインド洋大津波で孤児になった子供たちが、犯罪組織に誘拐される事件が多発しているのだという。子供たちは本人の意思とかかわりなく、違法な養子縁組み、売春の強制、臓器売買などのために転売されていくのだという。犯罪組織が狙うのは天災で傷ついたアジア諸国だけではない。貧しくて治安の不安定な国なら、どこにでもその手を伸ばす。最近では経済改革の波に乗り損ねた旧東欧諸国が犯罪組織のターゲットになり、旧ソ連のモルドバなどは犯罪者たちにとって格好の草刈場になっているとの話もある。今回スティーブン・セガールが戦うのは、弱者を食い物にするこれらの人身売買組織だ。
カナダの山中でひっそりと暮らしているウィリアム・ランシングは、かつて政府の特殊機関に所属していた経歴の持ち主だ。現在彼の心を癒してくれるのは、東欧の孤児院にいるイレーナという少女との文通だった。身寄りのないイレーナにとってランシングは後援者であると同時に親友。ところがこの孤児院は国際的な犯罪組織と手を組んで、成長した少女たちを海外に送り出す人身売買の拠点となっていた。突然連絡が途絶えたイレーナの行方を追って、ランシングは単身東欧へと飛ぶのだが……。
社会性のある立派なテーマを持ちながら、それが映画のストーリーとしてうまく着地できていないセガール映画の典型例。同じような例には『沈黙の要塞』『沈黙の断崖』『沈黙の陰謀』など、高らかに環境保護をテーマに掲げた映画がある。これらの映画もテーマばかりが宙に浮いて、それとプロットやアクションが有機的に結びついていないという欠点を持っていた。セガールは過去の失敗から何も学ばない。ひょっとすると彼にとって、過去の環境保護映画は「失敗作」ではないのかもしれない。もともとアクションというものが先にあって、そこになにやらご大層なテーマを強引にくっつけて毛色の変わったものにしようということだけなのかもしれない。
この映画の粗雑さはテーマとプロットの分裂ばかりではない。主人公ランシングとイレーナが暗号でメッセージをやり取りするというアイデアなど、ストーリーにうまくからめて行けばそこそこ楽しいサスペンスが作れるだろうに、それをまったく無視してしまう。主人公を援護する女刑事や、イレーナの身を案ずる孤児院の少年、武器を調達する酒場のオヤジ、主人公の命を狙うかつての所属組織の同僚たちなど、動かしようでどうにでもストーリーを盛り上げられると思うのにそれをしない。とりあえず主人公を動かしておいて、困ったときにはこれらの周辺人物から助け舟を出せばいいという、きわめて安直な脚本になっているのではないだろうか。
もっともそうした粗雑さ、安直さ、荒っぽさこそが、今やセガール映画の特徴になっている。映画中盤から筋運びがグズグズ崩れていくと、「そうこなくっちゃ!」と少し安心するのだから困りもの。
(原題:Out of Reach)
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