ビハインド・ザ・サン

2004/07/26 松竹試写室
農民同士の間で何世代も続く復讐という名の殺し合い。
『セントラル・ステーション』の監督の新作。by K. Hattori

 20世紀初頭のブラジル。サトウキビを栽培する貧しい農民ブレヴィス家と、隣家のフェレイラ家は、何十年にも渡って土地争いに血を流し続けてきた間柄だ。ブレヴィス家の長男がフェレイラ家の者に殺されたことから、一家の父親は次男トーニョに血の復讐を命じる。トーニョは父の命令に従ってフェレイラ家の男を殺すが、これによって今度は自分自身がフェレイラ家の者たちに命を狙われる立場になった。そんな折り、ブレヴィス家の近くをサーカスの芸人が通り過ぎていく。トーニョは若い女芸人に心惹かれ、彼女について生まれて初めて隣の町まで出かけるのだが……。

 『セントラル・ステーション』のウォルター・サレス監督の新作。原作は東欧アルバニアを舞台にしたイスマイル・カダレの小説「砕かれた四月」で、映画はそれをブラジルの物語に翻案している。家族が殺された時にその死を相手の血で贖うという復讐の連鎖は、実際にブラジルにも存在した実話を大いに参考にしたという。だが「殺されたから殺す。殺したから殺される」という復讐の連鎖は、今現在も世界中で起きていることだろう。映画のスタッフたちは原作者からの提案で、古代ギリシャ悲劇、特にアイキュロスの戯曲を研究したという。この映画が100年ほど前の近過去を舞台とし、農民同士の争いというローカルな事件を扱いつつも、それよりずっと大きな普遍的テーマを感じさせるのはそのせいかもしれない。血痕のついたシャツ。死を運命づけられた青年。盲目の老人。ブランコ。登場するキャラクターや小道具も、何かしらの象徴性を感じさせるのだ。

 僕自身はこの物語の中から、現代のパレスチナやイラクで起きている紛争を連想した。居たたまれないのは、復讐をやめてほしいと言う妻に向かってブレヴィス家の主人が「我々はすべてを失った。もはや復讐しか残っていない」と絞り出すように語る台詞。息子を殺されたフェレイラ家の主人が、「血の価値は誰しも同じだ」とつぶやくのも重い台詞だと思う。敵対する一家にすべてを奪われたブレヴィス一家にとって、相手の血を流すことだけが唯一許された反撃なのだ。命の価値だけは、金持ちも貧乏人も変わらない。家族や息子を亡くす悲しみや怒りは、金持ちにも貧乏人にも等しく約束されている。

 「血で血を洗う復讐の連鎖」という陰鬱な現実は、サーカスのエピソードが入ることで相対化されている。ここには因習にとらわれずに生きる人々がいる。サーカスの芸人のひとりは、農民たちが何世代にも渡って殺し合いを続けていることを軽蔑している。トーニョも一時期その中に入ることで、自分自身のこれまでの生き方を相対化してみせるのだ。だがそれでも、トーニョは古い因習の中に戻ってくる。これは誰に強いられたわけでもない、トーニョ自身の選択だ。この映画の中でもっとも悲しいのは、トーニョが自分で自分の人生を選び取ったこの瞬間かもしれない。

(原題:Abril Despedacado)

10月公開予定 新宿武蔵野館
配給:ギャガ・コミュニケーションズ、アニープラネット 宣伝:アニープラネット
2001年|1時間32分|ブラジル|カラー|シネスコ|ドルビーSR、SRD、DTS
関連ホームページ:http://www.gaga.ne.jp/
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