お客の荷物を自分のミスで紛失してしまった運送会社勤めのOL高瀬千夏は、自分のことを日本一運の悪い女だと思っていた。自力はあるのに試合のたびに連戦連敗のボクサー矢野修二は、自分のことを世界一運の悪い男だと思っていた。そんなふたりがひょんなことから出会い、人生の一発逆転を賭けて八百長ボクシングの片棒を担ぐ羽目になったことから、ふたりはヤクザたちに追われることになってしまった。そのふたりの前に現れたのは、お調子者のアキラと恋人のエミリ。そこから千夏と修二の運命は、少しずつそれまでとは違う方向に動き始めたのだが……。
映画の最初のところから、そもそも主人公たちの「運が悪い」という言い分がわからない。「運」とは自分も含めた人間の意志や努力とは無関係のところで決まる、物事の成り行きのことだろう。千夏が彼氏の家で食べ過ぎたのも、不注意から荷物を紛失したのも、千夏自身の行動が招いたひとつの結果に過ぎない。試合で負け続けている修二に至っては、単に自分が弱いことの言い訳に「運」を持ち出しているだけなのだ。こんなことを思わせないためには、主人公たちの「何をやっても裏目裏目の人生」を、もっとしっかり観客に印象づける必要がある。もっといろいろなネタを仕込んで、運やツキに見放された主人公たちの人生をきちんと観客に印象づけてほしい。
やたらと調子のいいアキラが出てきたあたりから、映画の狙いは比較的はっきりしてくるように思う。物語はより場当たり的で御都合主義的な方向に進んでいくのだが、それがあまり気にならなくなってくる。ただしここでも映画に対する違和感はずっと続き、それは映画が終わるまで消えることがなかった。
物語にうまく乗り切れない最大の原因は、千夏と修二の関係がいかにも生ぬるくて中途半端なまま終始しているからだ。このふたりは互いのことをどう思っているのか、それが最後までわかりにくい。特に修二が再びボクシングに戻る中盤以降は、離れていても互いが気になるふたりの気持ちが物語に緊張感を与えなければならないはずなのに、それがまるで画面から伝わってこないのだ。千夏はともかくと、修二はまるで彼女のことを忘れてしまったかのようではないか。そりゃエミリの方が美人だしね〜、と思ってしまう。修二とエミリは必要以上にベタベタしすぎ。ジムの会長に詫びを入れるなら、エミリの付き添いなしにひとりで行け。
マンガの表現を実写で再現してみたいという意図は、映画を観終わった後でなんとなく伝わってきた。でもこれは、映画を観はじめた当初から、観客にきちんと伝えなきゃ意味がない。コマ割風の画面分割をしてみるとか、斜線やフラッシュ、描き文字を入れてみるとか、マンガ表現をもっと徹底すればユニークなコメディになったかも。もっとも映画を作っている側は、そもそもそこまで深く考えていなかった可能性もあるけどね。