夢幻彷徨

MUGEN-SASURAI

2004/03/19 映画美学校第2試写室
美術監督・木村威夫の映画監督デビュー作となる短編。
映像と音楽だけで語られる35分の映像詩。by K. Hattori

 1945年に映画の美術監督としてデビューして以来、これまでに200本以上の作品を手がけているという映画美術の第一人者・木村威夫の監督デビュー作。DV撮影された35分の短編だが、鈴木清順、熊井啓、舛田利雄、黒木和雄、柳町光男、林海象といった個性的監督たちの作品で腕を振るった美術監督ならではの、したたるような美意識が織りなす35分間となっている。プレスリリースに簡単なストーリーが紹介されているので、以下にそれをそのまま引用する。

 『目隠しをした若い男と女が巨大なオブジェの前に立っている。ふたりは空襲のさなかに出会った。戦後、男は魂の自由を求めてさすらい、女は体を売って生計を立てていた。しかし女は男への愛に目覚め、男を捜し求める。長いすれ違いの末に、男と女は再びオブジェの前で出会った。女は自らの目隠しをとり、男の目隠しも取り払った。そして女は男の手を引いて、永遠の道行きへと向かう。その果てない二人の道行きの彼方に、天からの優しい光が降り注いでいる。』

 話としてはこれだけなのだが、映像と音楽だけで構成された台詞のないドラマは、寓意に満ちた前衛詩のような趣がある。ただこれが面白いかというと、僕は決して面白いとは思えなかった。これは優れた「映像作品」ではあるけれど、「映画」とはまた別の方向を向いたものであるように思えてならない。DV撮影のスタンダード画面というのは、純粋に映像美を味わうには少々窮屈。これは「物語」という制約を離れたところで、ベテラン美術監督に自由に映像を作ってもらうという実験としては面白いのかもしれない。でもこれが、「今」の作品として観客の鑑賞に堪えうるのだろうか。

 映画には太平洋戦争末期から戦後にかけての日本の風景が、監督なりのフィルターを通して再現されている。でもこれが我々の暮らしている「現代」と、ほとんど何の接点も持っていないように思える。もちろん本当の芸術は時代性を超越するものだろうし、時代を超越したところで普遍的な価値や意味を獲得していくものでもあるだろう。この『夢幻彷徨』という作品に、そうした普遍的価値がないとは言わない。でもどの時代にも通じる普遍的価値というのは、空気と同じで「大切だけれどその大切さが意識されないもの」になってしまう。

 もちろんこの映画は単なる「きれいきれい」の映画ではないし、そこにはくっきりと作り手の意志と個性が刻印されている。でも僕にはその価値がよくわからない。この映画は作り手の意識があまりにも内向きに思えてしまう。作家が自分の満足のためだけに、作品を作っているように思えるのだ。この作家は誰に見せたくてこの作品を作っているのか? 僕はそれがまったくイメージできなかった。少なくともこの映画は、僕のところに届いていない……。映画を観てもなんだか取り残されたような、不思議な感じだけが残る。

6月公開予定 ユーロスペース
配給:ポニーキャニオン、オフィス・エイト
2001年|1時間52分|韓国|カラー
関連ホームページ:http://www.ponycanyon.co.jp/
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