テヘラン朝7時

2003/11/19 映画美学校第2試写室
テヘランのある日の朝7時からはじまる人々のドラマ。
個々のスケッチはよくできているが大きなドラマがない。by K. Hattori


 テヘランの朝7時から、まるまる12時間(24時間?)の出来事を描く群像劇。女優と彼女に恋する信号係の警官、偽医者と査察官、バイクタクシーの運転手と乗客たち、男に追いかけられる女性と建設現場の溶接工など、テヘランの同じ空の下に暮らしている様々な人々が織りなすドラマを、同時進行でオムニバス風に描いている。監督は昨年のアジア・フィルム・フェスティバルにNHKとの合作映画『グレーマンズ・ジャーニー』を出品していたアミル・シャハブ・ラザヴィアン。本作は長編第2作目で、NHKエンタープライズ21との共同製作となっている。

 ひとつひとつのエピソードは相互に緩やかな接点を持ちながら同時進行するだけで、それぞれが重なり合って大きな物語に合流していくことはない。物語の中に「点」として存在していた人々は最後まで「点」のままで、点と点が結びついて「線」になったり、線と線がつながって「面」になることはないのだ。個々のエピソードは日常の一場面を切り取るスケッチ風のもので、物語としての広がりも厚みも乏しい。

 スケッチにはスケッチの面白さや良さがある。壁面一杯はあろうかという巨大なカンバスに分厚く絵の具を塗りたくるタブローは、それはそれで素晴らしい芸術ではあるのだが、スケッチにはタブローにはない素朴な味もあるだろう。これをスケッチ集だと割り切れば、テヘランで暮らすごく普通の人々の姿をいきいきと描いた秀作としてそれなりに評価もできるというものだ。

 ただしこの構成では、スケッチ集のテーマがぼやけている。映画の最初と最後に警官と女優のエピソードを置いて、都会の中で孤立して暮らしている人間の孤独のようなものを描こうとしていることは何となくわかるのだが、こうしたことはやはり何らかの「物語」を通して語るのが映画のあるべき姿なのではないだろうか。それぞれのエピソードに、物語を生み出すためのタネは仕込んであるのに、それを埋めっぱなしにして水や肥料をやろうとしないのはもったいない。

 確かにタネをタネのまま放置する限り、それが腐ったり枯れたりすることはないだろう。下手に芽を出させてしまうと、世話のしようによってはすべてを台無しにしてしまうことだってある。でも映画を作る人は、すべてを台無しにするリスクを承知で、やっぱり自分の手持ちのタネに水や肥料をやって大きく育てる努力をしてほしいのです。

 この映画の登場人物たちは、この映画に描かれた1日を通してどう変わったのだろうか。昨日までの日常と明日からの生活とに、どんな変化がおとずれるのだろうか。その「変化」や「変化を生み出す事件」こそがドラマだと思うのだけれど、この映画からはそれが見えてこない。ステファン・ツヴァイクが言うところの「人類の星の時間」が、この映画の中に流れているとはとても思えないのだ。これじゃ観ていて眠くなっちゃうよ。

(原題:Tehran 7 a.m.)

第5回NHKアジア・フィルム・フェスティバル
12月13〜21日 東京都写真美術館ホール
宣伝・問い合わせ:アップリンク
(2003年|1時間25分|イラン、日本)
ホームページ:
http://www.nhk.or.jp/sun_asia/tehran.html

DVD:テヘラン朝7時
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