夕映えの道

2003/06/17 松竹試写室
パリの下町で出会った中年女性と老婆の交流の記録。
ビデオ撮影が生み出すリアリティ。by K. Hattori

 イギリスの女性作家ドリス・レッシングがジェイン・ソマーズ名義で発表した「善き隣人の日記」を、舞台をパリの下町に移し変えて映画化した作品。パリで小さな広告会社を経営するイザベルは、ある雨の日、薬局でひとりのみすぼらしい老婆に出会う。たまたま言葉を交わしたことをきっかけに、老婆を車に乗せて自宅まで送り届けたイザベルは、彼女のあまりの生活の悲惨さに驚き、それ以来何かと彼女の世話を焼くことになる。老婆の名はマド。頑固者でほとんど他人と関わることのなかった彼女は、不思議とイザベルだけには心を開く。だがその偏屈ぶりに、イザベルと衝突することもしばしばだ。やがてマドは、自分の過去について少しずつ語り始める。裕福だった少女時代。継母と折り合いが悪くていじめられたこと。幸福な初恋の思い出。一流の帽子職人だったこと。不幸な結婚生活の破綻。極貧生活の中で長男を育てたこと。マドの中には、波乱万丈の物語が詰まっていたのだ。互いの胸襟を開いて打ち解けあうふたり。だがそんなふたりにも、別れのときが近づいていた……。

 映画は全編をホームビデオ撮りで、それをキネコでフィルムにしているようだ。ビデオ撮影特有のコントラストが強くてざらついた色調が、まるで日常生活をそのまま撮影してきたような生々しさを感じさせる。人物の表情が薄いベールをかぶったように不鮮明になってしまうという欠点はあるものの、ビデオ撮影が生み出すリアリティは特に実景描写でその価値を発揮する。ビデオはその場にあるものの姿を、そのまま撮影してしまうのだ。フィルムのように、風景が美化されることがない。

 例えばこの映画では、長い一人暮らしでゴミだめのようになっているマドの住まいが、最初は本当にゴミだめのように見えなければならない。おそらくフィルムで同じ部屋を撮影すると、日当たりの悪い部屋にわずかに入り込む光線の中で猥雑な部屋が微妙な陰影を作り出し、ゴミだめ同然の部屋がそれなりにフォトジェニックな風景に見えてしまうだろう。フィルム撮りでこの部屋をゴミだめに見せるには、軽トラ何台分かのゴミを新たに部屋に運び込む必要がある。でもビデオ撮影だと、そうしたディテールがすっ飛んで、ゴミだめ風の部屋はそのままゴミだめ風に撮れてしまうのだ。

 経済的に多少の余裕があるとはいえ、ひとりの女性が街で偶然であった老婆の生活になぜここまでの肩入れをしてしまうのか。老婆も近所の手助けはすべて断っていたくせに、なぜ彼女から援助だけは受け入れようとするのか。そのあたりの心理について、この映画はあまり踏み込んでいかない。これは一歩でもそこに踏み込めば、際限ない「なぜ?」に答える必要が出てくる問題だと思う。
 
 マド役のドミニク・マルカスやイザベル役のマリオン・エルドは、僕にとってあまり馴染みのない女優。こうした無名性も、映画のリアリズムに一役買っている。

(原題:Rue du Retrait)

9月20日公開予定 岩波ホール
配給:角川大映映画 協力:ユニフランス東京
宣伝:メディアボックス
(2001年|1時間30分|フランス)
ホームページ:
http://kadokawa-daiei.com/

Amazon.co.jp アソシエイト

DVD:夕映えの道
原作:夕映えの道(ドリス・レッシング)
原作洋書:The Diaries of Jane Somers
関連DVD:ルネ・フェレ監督

ホームページ

ホームページへ